気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

日蓮の偽書と六老僧の御書編纂のこと。

 
 
いつもみなさん、ありがとうございます。
 
 
 
さて、今回は日蓮の御書における「偽書」についてです。
 
 
 
偽書とは文字通り、日蓮ではない第三者日蓮の遺文に似せて作られた謀書であり、まさに日蓮遺文の「偽物」ということです。
このブログでも、日蓮の遺文について偽書の可能性が高いものを論じています。具体的には『御義口伝』『諸法実相抄』『阿仏坊御書』『百六箇抄』『本因妙抄』『経王殿御返事』『二箇相承』『教行証御書』などです。
 
 
ところで、そんなことを述べると、感情的に反発してくる創価学会日蓮正宗信徒さんがいます。彼らの多くは論理的な批判ですらなく、多くが感情的なものです。
 
 
日蓮大聖人様の御書の真贋は、その御書の内容から判断されるべきだ!」
 
「私たちが信じてきた御書を偽書というなんて許せない」
 
 
……とまあ、書くのも馬鹿らしくなってしまうような、子どものような言い訳なんですが(笑)、そもそも偽書はいつ頃から出てきたのかと言えば、日蓮滅後すぐから偽書の議論は出てきていたのです。だからこそ「偽書」については厳格に確認して何が日蓮の思想で、何が日蓮の思想でないのかをきちんと見ていく必要があるのです。
 
 
日蓮の御書編纂史や編者に関しては、多くの異論もありますが、古来から一般的に言われてきたのは、日蓮没後に六老僧が協力し、日蓮の一周忌を期して御書を集めて148編を目録に掲載したものです。更にこの収録に漏れたもの259編を加えて、これを「録内」「録外」と称したというものです。
この言い伝えがいつ頃から出たのかは年代を確定するのが難しいところではあります。寛正2年(1461年)の本成房日実の『宗旨名目』には「其目録トハ弘安六年癸未十月十二日記シ置キ給フ御書一百四十八通也」とありますから、この頃には広くこの言い伝えが知られていたことがわかります。
 
 
更に六条門流の啓運日澄(1441〜1510)の『日蓮聖人註画讃』には、六老僧が協力して弘安6年(日蓮滅後の翌年)2月から御書目録編成の計画を立て、十月の一周忌に池上本門寺において、長老の日昭の執筆でその140余編の目録を記載し、六老僧が加判したことを記録しています。この全文が身延山11世行学院日朝(1422〜1500)の御書目録の最後に載せられています。ここでは浅井要麟編『昭和新修日蓮聖人遺文全集・別巻』(平楽寺書店、1934年)から挙げてみましょう。

「聖人御入滅の後に於ては、定めて無道心の悪人等有りて、恣に謀書を作り、聖人の御書と称し、一切衆生を誑惑の者有るべきに依り、去る二月の頃より御僧の中貴賤の中に於て廻文を成して云く、聖人の御書所持の人々は、其の数を持拾し奉り、御一周忌に持参して、目録に入れられるべきの由、之を触れ畢んぬ。随つて悉く持参これ有りし御書、大小これを合して一百四十八通と為す。此の外は設ひ実の御書たりと雖も、左右なく目録に入るべからず。若し御書たること顕然ならば、内談を経て之を入れられるべきなり。仍て六老僧一同談合を遂げ定め畢んぬ。
弘安六年太歳癸未十月十二日
             日昭判
             日朗判
             日興判
             日向判
             日頂判
             日持判」
 
(浅井要麟編『昭和新修日蓮聖人遺文全集・別巻』より、364〜365ページ、平楽寺書店、1934年)
 
 
 
ここでは六老僧の手によって、日蓮滅後から「謀書」すなわち「偽書」が作られていたことが明確に書き残されています。
すなわち日蓮滅後から既に日蓮遺文の偽作は行われており、六老僧はそれを止めるべく、一致協力して遺文の収集に努めたことになります。
また中山日常(富木常忍)は、『本尊聖教録』を作り、後に『日常置文』を残すことで、遺文の厳格な管理を後世に伝えたことも、これら偽書の作成や真蹟略奪により、日蓮の思想が歪曲されることを恐れてのものであったに違いないでしょう。
日蓮滅後に偽書は既に作られており、そのことは、少なくとも15世紀前後には多くの日蓮門流に知られていたということになります。