いつもみなさん、ありがとうございます。
今回は『寂日房御書』について書いてみようと思います。
「すでに勧持品の二十行の偈の文は日本国の中には日蓮一人よめり」
「父母となるも其の子となるも必ず宿習なり」
「此の御本尊こそ冥土のいしやうなれ・よくよく信じ給うべし」
(同902〜903ページ)
それはなぜか、同抄の初出が『他受用御書』だからです。真蹟不存、古写本も不存、しかも『寂日房御書』の初出が慶安2年(1649年)の江戸時代以降のものでしかないなら、日蓮が書いた御書とは言えないでしょう。以下の画像は『昭和新修日蓮聖人遺文全集』(平楽寺書店)の別巻解説からですが(同402〜403ページ)、ここでは江戸時代刊行の『他受用御書』収録108通の内、板本録外に載録漏れとなった8編の中に『寂日房御書』が含まれています。すなわち『他受用御書』が『寂日房御書』の初出に過ぎず、他の出所根拠の不詳な御書であるということです。この中には『諸法実相抄』『月満御前御書』等も含まれています。
次に本文の内容です。
『寂日房御書』では「一切のものの名が重要」とし、日蓮の出生を「かかる不思議」とし、それを「うみ出せし父母」を評価して「父母とも其の子となるも必ず宿習なり」とします。
『寂日房御書』では「父母の宿習」が自身の出生の不思議を肯定するために文脈として出てきますが、そのような考えは他の日蓮真蹟には見られない考えです。
『開目抄』でも「宿習」の語は出てきますが、「父母の宿習」とはしていません。
次に「日蓮」という名前の不思議さを同抄で説明するのに、ここで「自解仏乗」と言う語が使われます。これは「自ら仏乗を解す」と読むのですが、本来これは『法華玄義』序の「法華私記縁起」冒頭で「大法東漸してより僧史に載する所、詎に幾人か曾て講を聴かずして自ら仏乗を解する者あらん乎」とある部分から取られたものです。
ところで、この「自解仏乗」と言う語は日蓮が仏乗を解すると自ら述べるところから日蓮本仏説を示唆している部分とも考えられますが、この「自解仏乗」を引用している遺文はどれも真蹟不存で偽書説の濃厚なものばかりなのです。
具体的に挙げてみましょう。
『立正観抄送状』(同御書534ページ)
真蹟不存、久遠寺日進写本
『百六箇抄』(同864〜865ページ)
真蹟不存、時代写本不存
『妙密上人御消息』(同1240ページ)
真蹟不存、時代写本不存
『十八円満抄』(同1364ページ)
真蹟不存、時代写本不存
どうでしょうか。この有様では「自解仏乗」という語が後世に何らかの意図を持って偽書作成の際に引用されたと言っても仕方がないと思います。日蓮は真蹟の中で1箇所も「自解仏乗」などとは書いていません。全て偽書まがいの書物にしか載らない表現です。
従いまして『寂日房御書』は、偽書説ほぼ確定の御書であると断じてよいと私は思います。