気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

日興は日蓮滅後、2年近く身延を離れていた。

 
 
いつもみなさん、ありがとうございます。
 
さて今回は『美作房御返事』から判断すると、日興は日蓮滅後、弘安7年後半まで長らく身延には在住していなかったことを書いてみたいと思います。
 
 
日蓮が弘安5年(1282年)10月13日に亡くなり、日興により『宗祖御遷化次第』が同年10月16日に書かれます。
翌年の弘安6年(1283年)正月1日に日興らによって身延の『墓所可守番帳事』が制定され、墓の輪番制が制定されます。この書にも六老僧の花押が紙の継ぎ目に記されていますので、この輪番制は当初、正しく六老僧共通の認識だったことは間違いないかと思います。以下の画像は日興『墓所可守番帳事』で、本文及び日興真蹟画像は『日興上人全集』(興風談所、平成8年)より、それぞれ117ページ、480ページ所収のものです。

とすると、弘安6年1月に当月番の日昭を残して他の5人は下山したことになります。そもそも『墓所可守番帳事』執筆者は日興本人ですから、日興も当月の墓守である日昭を尊重したことが容易に推察できるでしょう。
ところが日興の『美作房御返事』によるなら、日蓮遷化2年後の弘安7年秋には輪番制そのものが事実上崩壊しており、日蓮の墓も荒れ果てていたことがわかります。
以下は日興『美作房御返事』本文です。出典は創価学会編年体御書、1729〜1730ページになります。

ここには明確に「此の秋より随分寂日房と申し談じ候いて、御辺へ参らすべく候いつるに其れも叶わず候。何事よりも身延沢の御墓の荒はて候いて、鹿かせきの蹄に親り懸らせ給い候事、目も当てられぬ事に候」(1729ページ)とまで書かれています。
日興が弘安5年の日蓮の滅後から身延に在住していたのなら、そもそも日興が日蓮の墓を荒れ果てた状態にしておく筈がありません。またその墓の荒廃を寂日房と相談する理由がありません。もしも身延に日興が在住していたならそもそも「身延沢の御墓」と書くこと自体が不自然で、単に「御墓」等と書いて然るべきです。
 
この『美作房御返事』は弘安7年10月18日執筆とされます。日興真蹟は現存せず、京都要法寺の広蔵院日辰の『祖師伝』(永禄3年、1560年)に全文が引用されています。日蓮滅後の身延の状況を記した唯一の文献ですが、真蹟も古写本も存在しません。しかしながらこの『美作房御返事』を偽書とする見解や研究は存在しませんので、ほぼ全ての日蓮門流が同抄を事実上真蹟と認めていることになります。
とするなら、日興は弘安6年1月に当月番の日昭を残して、身延を離れていることになります。もし日興が身延に在住していたのなら、日蓮の墓が荒廃した原因は日興本人に帰せられることになってしまいます。したがって弘安6年1月以降、日興は身延を離れて2年近く帰っていなかったということです。
 
さて身延にこの時、もしも弘安2年造立説の戒壇本尊が現存していたと仮定するなら、日興が2年近くも不在にして戒壇本尊を放置するということがあり得るでしょうか?
また日興が不在で、当初の身延輪番だった日昭が、この時、戒壇本尊が現存していたとして、それを見なかったということがあり得るでしょうか? またそれが日昭らの門流等の記録に残されないということがあり得るでしょうか?
これらのことから考えても、弘安5年当時には戒壇本尊は存在しなかったことがよくわかるかと思います。
 
 
 
参考文献
金原明彦『日蓮と本尊伝承』水声社、2007年