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創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

弘安2年10月12日の日興への書状。





いつもみなさん、ありがとうございます。



さて大石寺蔵の「戒壇本尊」は偽作、後世の創作の可能性が高いことは、このブログで繰り返し述べています。そして戒壇本尊が建立されたという日付は、本尊自体に記されたところによれば「弘安2年10月12日」とされています。



ところで、日蓮の遺文で「弘安2年10月12日」その日に書かれたものが一つ残っています。
それは『伯耆殿等御返事』です。創価学会版の御書全集では1456ページに載っています。

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日付をみると正しく「弘安二年十月十二日」と確認できるかと思います。
この遺文は日蓮真蹟が現存しませんが、日興による写本が現存しています(北山本門寺蔵)。



あまり詳しくない方もおられると思いますので補足しますと、ここの「伯耆殿」とは伯耆房、すなわち日興本人のことです。日興がかつて「伯耆房」(ほうきぼう)と呼ばれていたことは広く知られるところです。
そしてこの『伯耆殿等御返事』は、日蓮自身が身延で書き、鎌倉にいた日興、日秀、日弁らに与えられたものとされています。これは熱原農民信徒の不当逮捕を幕府に訴えるため、日興の草案(※注1)に日蓮自身が加筆した上で、前半部を書き加えた『滝泉寺申状』(同849〜853ページ)に添えて送られたものです。



伯耆殿等御返事』の内容を見ると、熱原農民信徒の不当逮捕、行智の行状を訴える場合の注意、また相手側の言い分に対する反論の仕方など示し、その通りに実践しないものは日蓮の門下ではないと戒める内容になっています。


この『伯耆殿等御返事』の日興写本には、末尾に日興の加筆がされています。
そこには次のように書かれています。



「日興数通の御状を給中にも此沙汰時之【一】(貮 花押)通之外、下字給たる御書無之、余所一字、已上三字下也」
(『日興上人全集』150ページ)

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日興がこれ以外に賜った御書は他にないということなのでしょう。
ところが、この書状のどこを見ても、また『滝泉寺申状』のどこを見ても、「戒壇本尊」のことなど全く書かれていません。
あり得ないことですが、もしも仮にこの緊迫した情勢下で楠に彫られた「戒壇本尊」を建立していたとするなら、そのことに関して日興に伝える書状が他に存在するか、でなければそのことがこの書状中に触れられるのが自然なことでしょう。しかし戒壇本尊のことは全く書かれていません。しかも弘安2年10月12日の時点で日蓮が日興に書状を出すということは、この時に日興が日蓮のもとにはいなかったということになる筈です。
繰り返しますが、この書状の日付は弘安2年10月12日のものです。戒壇本尊が「造立」されたとされる日付であるにも関わらず、戒壇本尊に関しては全く触れられていません。このことからも「戒壇本尊」の信用性の低さがよくわかる気がします。


※注1
『滝泉寺申状』原本真蹟は、前半部と後半部で筆跡が異なっていまして、一般的には前半部が日蓮本人の執筆、後半部が日興の執筆と考えられています。
ただ近年の研究によりますと、興風談所の菅原関道氏は、字体の比較から同抄の後半部が日興筆ではなく富木常忍筆であるとしています。