いつもみなさん、ありがとうございます。
以前に「大石寺の本仏説の変遷」で紹介したように、日蓮御影を「本尊」と定義した最初の人物は大石寺9世日有です。『有師化儀抄』には明確に「当宗の本尊の事、日蓮聖人に限り奉るべし」(富要1-65)と書かれています。
「大石寺の本仏説の変遷」
では日興は、日蓮御影を本尊と定義したことがあるのでしょうか?
「御滅後に聖人の御房を御堂に日興上人の御計として造り玉ふ、御影を造らせ玉ふことも日興上人の御建立なり」
(三位日順『従開山伝日順法門』、富士宗学要集2-95ページ)
ここでは「身延山」とありますので、日興が御影を建立した記録は身延在山中のことであることがわかります。
ところが同じ三位日順の『富士一跡門徒存知事』では、曼荼羅本尊を四菩薩を伴う釈迦仏像建立するまでの代わりとしてよいという発言が見られます。ここから見るなら日興の本尊は久成釈迦仏と曼荼羅本尊であり、日蓮御影ではないことになります。
「仏像を安置することは本尊の図の如し」
また日興が三位日順に「日蓮御影の建立」をしたことが述べられていても、日興はここで「日蓮御影」についての教義的意義を述べたとは日順は書いていません。また日興が自身の遺文で「日蓮の御影を本尊とする」と定義したことはないのです。
とすると、論点を整理すると以下のようになるでしょう。
1、三位日順によれば、日興が身延にいた時に日蓮御影が建立されていた。
3、日興は『富士一跡門徒存知事』や『原殿御返事』で「四菩薩を伴った久成釈迦仏の像」が建立されるまで「曼荼羅本尊」を代用として用いて良いとしており、日興の本尊は「釈迦仏像」と「曼荼羅」と定義していることになる。ここには日蓮御影が本尊であるとは全く書かれていない。
以上のことが言えるかと思います。