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さて今回は、本門戒壇建立時の本尊を日興はどう考えていたのかという点です。
「本門寺に懸けられるべき本尊」
ところが、日興本人が曼荼羅以外に仏像本尊も実際認めていることもブログでは書きました。
「日興は仏像本尊を認めている」
また日興の弟子たちも実質的に本門戒壇建立時に仏像を安置することを認めています。
例えば以下のような発言です。
(三位日順『本門心底抄』富士宗学要集2-34ページ)
「仏像造立の事、本門寺建立の時なり、未だ勅裁無し、国主御帰依之時、三ケ大事一度に成就せしめ給うべき之由御本意なり、御本尊図は其れが為なり」
このように日興の弟子たちに本門戒壇建立時の本尊が仏像になることはきちんと伝えられています。
ところでそんなことを書くと多くの方は「日興は仏像本尊を否定された筈だ」と感情的に反発されるかもしれません。しかし先のブログ記事で引用した『原殿御返事』で日興は仏像本尊を否定していません。
加えて『富士一跡門徒存知事』で仏像本尊が否定されていますが、実はこれはよく読むと五老僧が「釈尊一体仏」や「普賢文殊」を脇士としたことに対する論駁であり、ちゃんと日興は同書の追加8箇条の中で「一尊四菩薩像」を本尊と認めています。
少し引用してみましょう。
一、民部阿闍梨も同じく四脇士を造り副う、彼の菩薩像は比丘形にして納衣を著す、又近年以来諸神に詣ずる事を留むるの由聞くなり」
さらに『五人所破抄』にも以下のような記述があります。
「執する者尚強いて帰依を致さんと欲せば須らく四菩薩を加うべし敢て一仏を用ゆること勿れ云云」
(三位日順『五人所破抄』同1614ページ)
上述の引用から想像される日興の思想は決して仏像本尊否定論者ではありません。日興は釈尊一体仏や四菩薩を脇士としない権迹門の釈迦像を否定したのであって、実は日興にあっては「本門の釈尊像」は肯定されているのです。