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さて今回は日興の弟子、日目らが書いたとされる『日興上人御遺跡事』について、そこで触れられている『園城寺申状』についてです。
まず日目の『日興上人御遺跡事』を紹介しましょう。これは日興の滅後、日目ら弟子たちが、広宣流布の暁の「本門寺建立の時」に本堂に納めるべき重要なものを書き留めた文書です。正本は大石寺に現存する(大石寺説)としています(『日蓮正宗歴代法主全書』1-213ページ)。
さて本堂に納めるべきとしたのは二つです。
「御影」とは日蓮の像になります。
では「園城寺申状と下文」とは何のことでしょう。ご存知でない方のために少し詳しく書いてみます。
天皇はこの『申状』を園城寺の碩学たちに検討させ(このため、この『申状』は『園城寺申状』と呼ばれます)、「朕、他日法華を持たば必らず富士山麓に求めん」という『下文』を下賜することになります。いわば日蓮は天皇からのお墨付きを貰ったことになります。
ところが、この『園城寺申状』と『下文』は現在は現存しません。これら重要な文書を日目は「本門寺建立の時に本堂に納めるべし」としたのに、何と大石寺はこれを紛失してしまったのです。このことは大石寺59世堀日亨の『富士日興上人詳伝』に書かれています(堀日亨『富士日興上人詳伝』126ページ、創価学会、昭和38年)。
これを読むと、紛失の経緯は「目師滅後、幾何もなく日代系の仁において申状の案および下し文も紛失したるがごとく」とされています。
大石寺が日興門流の正統であるなら、なぜ日目はその保存を北山や西山の日代系に託したのでしょうか。それなら彼らが考える「本門寺」とは「大石寺」のことではなく「北山本門寺」か、または「西山本門寺」ということになります。
自然に考えるなら、当時、日興門流の諸本山は互いに連携しており、大石寺だけが特別な存在だったわけでもないのです。また本門寺がそもそも「広宣流布の暁に大石寺が改称する名前」とするのも後付けの教義であることがわかるかと思います。