気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

『園城寺申状』と『下文』のこと。

 
 
いつもみなさん、ありがとうございます。
 
 
さて今回は日興の弟子、日目らが書いたとされる『日興上人御遺跡事』について、そこで触れられている『園城寺申状』についてです。
 
 
まず日目の『日興上人御遺跡事』を紹介しましょう。これは日興の滅後、日目ら弟子たちが、広宣流布の暁の「本門寺建立の時」に本堂に納めるべき重要なものを書き留めた文書です。正本は大石寺に現存する(大石寺説)としています(『日蓮正宗歴代法主全書』1-213ページ)。

 
さてこれを見ると、日目らが「本門寺建立の時に本堂に納め奉る可し」としているのは二つのみです。「日蓮聖人御影」そして「園城寺申状と下文」と書かれています。
ここのどこにも「弘安二年戒壇本尊」などと書かれてはいません。したがってこの文書からも戒壇本尊は後世の偽作であることがわかります。
 
さて本堂に納めるべきとしたのは二つです。
「御影」とは日蓮の像になります。
では「園城寺申状と下文」とは何のことでしょう。ご存知でない方のために少し詳しく書いてみます。
 
弘安4年(1281年)、ちょうど弘安の役の時になりますが、2度目の蒙古襲来があり、日蓮は幕府への諫暁が奏功しなかったことから、天皇に対する諫暁を思いたち、朝廷に対して『申状』を作成しました。
日蓮は日興に指示をして、この『申状』を京都に届けさせ、後宇多天皇に上奏することに成功します。日蓮はその翌年の弘安5年(1282年)にも、この時は日目に命じて同状を朝廷に提出しています。
天皇はこの『申状』を園城寺碩学たちに検討させ(このため、この『申状』は『園城寺申状』と呼ばれます)、「朕、他日法華を持たば必らず富士山麓に求めん」という『下文』を下賜することになります。いわば日蓮天皇からのお墨付きを貰ったことになります。
ところが、この『園城寺申状』と『下文』は現在は現存しません。これら重要な文書を日目は「本門寺建立の時に本堂に納めるべし」としたのに、何と大石寺はこれを紛失してしまったのです。このことは大石寺59世堀日亨の『富士日興上人詳伝』に書かれています(堀日亨『富士日興上人詳伝』126ページ、創価学会、昭和38年)。

 
これを読むと、紛失の経緯は「目師滅後、幾何もなく日代系の仁において申状の案および下し文も紛失したるがごとく」とされています。
と言うことは、この『園城寺申状』と『下文』は「日代系」つまり北山本門寺西山本門寺に現存していたことになります。
大石寺が日興門流の正統であるなら、なぜ日目はその保存を北山や西山の日代系に託したのでしょうか。それなら彼らが考える「本門寺」とは「大石寺」のことではなく「北山本門寺」か、または「西山本門寺」ということになります。
自然に考えるなら、当時、日興門流の諸本山は互いに連携しており、大石寺だけが特別な存在だったわけでもないのです。また本門寺がそもそも「広宣流布の暁に大石寺が改称する名前」とするのも後付けの教義であることがわかるかと思います。