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創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

御影堂は日興により重須に建立された。




いつもみなさん、ありがとうございます。



さて今回の記事は、北山本門寺に存在した「御影堂」について、そして大石寺には当初は「御影堂」がなかったという点についてです。



歴史的に見て北山本門寺に最初に日興が「法華本門寺根源」を感得し、「御影堂」と「法華垂迹天照大神宮」を建立したことは歴史的に見て疑い得ない史実かと思います。


「日興の『本門寺根源』と石川氏。」


北山本門寺は当時「重須談所」と称され、御影堂や大坊が立ち並ぶ学問所が形成されていました。日興が書写した『頼基陳状』写本の末文には「正和五年閨十月二十日駿河国富士上方重須談所以再治本書写了 白蓮七十一才」と書かれています(『日興上人全集』148ページ)。


また日興書写の『開目抄要文』の写本には「正和六年二月二十六日於御影堂」(同145ページ)と書かれていまして、既に正和5年〜6年(1315〜1316年)当時から「重須談所」が北山に存在し「御影堂」が既に建立されていたことがわかります。


では大石寺には当初「御影堂」は存在したのでしょうか。
私は存在していなかったと思います。
まず現在の大石寺の御影堂は寛永9年(1632年)、敬台院からの寄進により建立されたものです。ちなみにこの大石寺御影堂は、大石寺で現存する最古の建物になります。
大石寺及び日蓮正宗は、御影堂の創建は日興本人によるもので、1632年の御影堂建立は「再建」であるとの立場に立っています。


大石寺がその根拠としているのは、なんと『日興跡条条事』であり、「大石寺者云御堂云墓所日目管領之加修理致勤行可待広宣流布也」(同130ページ)の一文です。確かにここには「御堂」の文字がありますが、そもそも『日興跡条条事』正本と呼ばれるものは、日興の常の筆跡と字体が異なっており、偽作の疑いが拭えないものです。実際、ブログでも写真で対照して筆跡について検証したことがあります。

「日興の筆跡。」

したがって大石寺には当初「御影堂」はなかったのです。日興が法華本門寺根源とし、重須談所を開設し、御影堂と法華垂迹天照大神宮を建立したのは北山本門寺なのであって、大石寺ではありません。


保田妙本寺11世日要の著作『新池抄聞書』は大石寺9世日有の話を日要が聞き取り、それを弟子の日果が筆録したものですが、この中で、大石寺9世日有の話として「重須に御影堂があり」「大石寺には本尊堂がある」という話が出てきます。これは『富士宗学要集』にも『日蓮宗宗学全書』にも収録されていないのですが、大石寺59世堀日亨の『富士日興上人詳伝』に一部が抄録されています。


「日有云く、また云く、大石は父の寺・重須は母の寺・父の大石は本尊堂・重須は御影堂・大石は本果妙・重須は本因妙・彼は頼願寺・此は祈願寺・彼は所開・此は能開・彼は所生・此は能生・即本因・本果・本国土妙の三妙合論の事の戒壇なり、開山置状に云く日目・日仙・日代は本門寺の大奉行・中にも日代は日興が補処たり文、是は日興は母の得分にて後座すに依て日代には母の方を授け日目には父の方を授け給へり。」
(「新池抄聞書」、堀日亨『富士日興上人詳伝』294〜295ページ、創価学会、昭和38年)


これは日有が大石寺の権威を示すために述べたところであると考えられますが、ここで日有は大石寺が「本尊堂」であり、重須が「御影堂」であると述べています。
もし大石寺9世日有(1402〜1482年)の頃に大石寺にもしも「御影堂」が存在するなら、日有がここで「重須は御影堂」と述べていることが不自然になります。そもそも大石寺に御影堂がその時点で存在したのなら、わざわざ「重須は御影堂」と呼ぶ必要などない筈です。
つまり重須には既に日興由来の「御影堂」が存在しており、日有は「本尊堂」及び「そこにかけられるべきなんらかの中心本尊」を創作して大石寺の権威化を図った可能性が高いことがここからわかります。

というわけで、御影堂はそもそも大石寺には存在せず、古来日興によって重須、北山本門寺に建立されたというのが正しい史実であると考えています。