気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

日興からの伝燈法師・日代。

 
 
いつもみなさん、ありがとうございます。
 
 
 
 
さて、私は日蓮日興に「付弟一人」「唯授一人」という相伝の考え方が存在しなかったと思っています。
そもそも日蓮の弟子は「六老僧」として晩年に選定され、日興はそれに倣って「本六」「新六」と言う6人ずつの弟子を決める方法論です。日蓮にも日興にも「唯授一人」という弟子への相伝の方法は採られていないのです。
 
 
「『二箇相承』と『宗祖御遷化記録』との矛盾」
 
 
ですから、日興が日目だけに唯一の相伝を残したというのも、普通に考えてあり得ない話です。
日興は正応3年(1290年)に大石寺が建立された後、大石寺を日目に譲り、自身は永仁6年(1298年)、重須に移ります。そして重須は伊予公日代に譲られることになります。
 
 
事実、日興から日代へ重須管長の付属があった証拠として、日代書写の本尊に自身を「日興上人伝燈法師」「日興上人伝燈日代」と書かれた本尊が複数体、西山本門寺に現存しているのです。
以下は嘉慶2年(1388年)8月の日代書写本尊ですが、左下に「日興上人伝燈法師 日代」と書かれています。

 
また康応2年(1390年)6月8日、日代の書写本尊には「日興上人伝燈日代」と書かれています。これらの本尊は西山本門寺に現存しています。

 
ここからもわかるように、日興からの相承というものは、「本六」「新六」という複数人に対して行われていたものなのであり、その意味で大石寺は日目に、また重須本門寺は日代に譲られたというのが正確な史実であったと思います。誰か一人を特別視するような相伝日蓮や日興の考えには見られません。
しかし後世に自山を権威化する発想が出てきて、その結果として『日代八通譲状』や『二箇相承』『日興跡条条事』といった偽書が作成されたと考えることができるでしょう。