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「讃文」とは本尊右下に多く書かれるもので、多くは「仏滅度後二千二百三十余年之間一閻浮提之内未曽有大漫荼羅也」と書かれます。またこれは『御本尊七箇相承』でも言及され「仏滅度後二千二百三十余年の間・一閻浮提の内・未曽有の大曼荼羅なりと遊ばさるゝ儘書写し奉るこそ御本尊書写にてはあらめ、之を略し奉る事大僻見不相伝の至極なり」(富要1-32)とされています。すなわち大石寺の相伝書によるなら「讃文」は略して書くことは「大僻見」「不相伝の至極」になるのです。
ところが、大石寺の法主にはこの「仏滅度後二千二百三十余年之間一閻浮提之内未曽有大曼荼羅」をこの通りに書かない人が存在します。すなわち法主自身が「大僻見」「不相伝」であることを認めてしまっているようなものです。
ちなみに日蓮や日興の書写本尊で、この「仏滅後正像未弘之大本尊也」と書かれたものは、一つも存在しません。一体も存在しないのです。
ちなみに大石寺の戒壇本尊もまた讃文は『七箇相承』と異なっていまして、戒壇本尊には「仏滅後二千二百二十余年之間一閻浮提之内未曽有大漫荼羅也」と書かれています。「仏滅度後」が「仏滅後」と違っており、また「二千二百三十余年」が「二千二百二十余年」となっています。