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創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

『二箇相承』と『宗祖御遷化記録』との矛盾。



いつもみなさん、ありがとうございます。



さて今回は『二箇相承』と『宗祖御遷化記録』との矛盾を見てみましょう。日蓮は弟子への遺言として、日興一人のみに相伝したと本当に言えるのでしょうか。
創価学会日蓮正宗は『二箇相承』の存在によって、日蓮から唯授一人の相伝が弟子・日興に付されたとしていますが、果たして本当にそうなのでしょうか。

最初にあまりご存じでない方のために、『二箇相承』の内容を紹介してみましょう。この文書は「身延相承書」と「池上相承書」の2つから構成されていまして、2つを合わせて『二箇相承』と呼ばれます。
最初に写本の画像を載せ、その次に本文を載せてみます。
写本画像は、弘治2年(1556年)7月6日、京都要法寺日辰による臨写本です。


日蓮一期の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を付嘱す、本門弘通の大導師たるべきなり、国主此の法を立てらるれば富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり、時を待つべきのみ、事の戒法と云うは是なり、就中我が門弟等此の状を守るべきなり。
弘安五年壬午九月 日
日蓮在御判
血脈の次第日蓮日興」
釈尊五十年の説法、白蓮阿闍梨日興に相承す、身延山久遠寺別当たるべきなり、背く在家出家の輩は非法の衆たるべきなり。
弘安五年壬午十月十三日
日蓮在御判
武州池上」
創価学会版御書全集1600ページ)



今回の記事は『二箇相承』と『宗祖御遷化記録』の対照による内容の吟味です。
まず『二箇相承』は真蹟が存在しません。最古の写本は京都要法寺の日廣本(1468年)と言われています。日蓮の没年が弘安5年(1282年)ですから、日蓮滅後186年後に現れた文献と言えるでしょう。
それに対して『宗祖御遷化記録』は日興が弘安5年10月16日、日蓮の葬儀の様子と遺言を記録したもので、西山本門寺に日興真蹟が現存します。また後世に残す意味から各紙の継ぎ目に六老僧の花押が記されています。『宗祖御遷化記録』は国から国宝・重要文化財に指定されています。

なおこの六老僧の継ぎ目の花押については、以前記事で紹介したことがあります。

日蓮と弟子たちの花押」


では両文書を対照した時に見えてくる矛盾点をいくつかピックアップしてみましょう。



1、弟子は6人か1人か。

日興真蹟の『宗祖御遷化記録』では本弟子を「六人」としています。これが書かれたのは弘安5年(1282年)10月16日です。
もしも『二箇相承』のように日蓮が日興のみを弟子としたならば、日興が『御遷化記録』でそもそも本弟子を「六人」と書き、しかもその序列について「不次第」と書いていることと矛盾します。「不次第」とは、つまり日興本人が6人の本弟子に対して序列をつけていないということなのです。


画像は『宗祖御遷化記録』日興真蹟ですが、きちんと「弟子六人事 不次第」「右六人者本弟子也」と書かれています。日興が同年の9月または10月13日(日蓮の逝去の日!)に『二箇相承』で「唯一の相伝」を自分に受けていたのなら、それをここで書かないのはあまりに不自然です。もし日興がこの時点で仮に日蓮から『二箇相承』を授けられていたとするなら、日興は他の五人の老僧に嘘をついて「六人が本弟子」と記したことになります。

また史実から見ればわかる通り、日興は「本六」「新六」と呼ばれる弟子たちを育成しています。それは『宗祖御遷化記録』で残したように複数の弟子たちを残す方法と酷似しており、日興は日蓮が6人の弟子たちを残したことに倣って自身の弟子たち6人を指名していると言えるでしょう。
つまりここから考えれば日蓮と日興の中に「唯授一人」とか「付弟一人」と言った考え方は存在せず、一人から一人のみに相伝するという教義は日蓮日興の発案ではなく、後世に生まれた教義である可能性が高いということです。



2、日興に背く在家出家は非法の衆か。

『二箇相承』の池上相承書には、日興が「身延山久遠寺別当」になるべきことが書かれ、しかも「背く在家出家の輩は非法の衆」とまで書かれています。
別当」というのはすなわち身延山の管長ということです。本山のトップに立てということであり、日興に背くのは非法になるということです。
もし弘安5年10月13日の時点で、この『二箇相承』原本が実在していたと仮定するならば、そもそも日興が身延を離山する理由がなくなります。なぜなら日興が日蓮から授かった相承書を見せれば、彼らこそ「非法の衆」になるからです。日蓮の筆で書いてある『二箇相承』があれば波木井南部実長も民部日向も反論することはできないでしょう。
それなのに史実は日興の方が山を降りた。日蓮が「別当」になれと日興に言い残した筈の身延山を日興本人が離れてしまった。ここから見ても『二箇相承』が日興在世に存在しなかったことがよくわかるかと思います。


3、日蓮の葬儀での日興の位置

日興の『宗祖御遷化記録』では葬列の順番もきちんと書き残されています。
葬儀の前列は在家信者の先火や幟が立ち、その後に日蓮の棺が続きます。棺を囲んで前陣と後陣にそれぞれ分かれており、前陣の中心が「大国阿闍梨」日朗、後陣の中心は「弁阿闍梨」日昭が勤めています。それに対して「白蓮阿闍梨」日興は後陣の日昭の左の4番目に控えているのです(以下の画像参照。『日興上人全集』114〜115ページ)。


もしも『二箇相承』で日興が日蓮から「唯授一人」の相承を受けていたなら、そのことを日興が自己申告しないのが不自然になります。もし『御遷化記録』以前に『二箇相承』が存在したのなら、彼は正統な日蓮の後継として前陣か後陣の中央、日朗や日昭の位置に日興がいなければおかしなことになります。しかし事実はそうではありません。
ここから考えるに、日蓮から本弟子とされた6人はまさに『御遷化記録』にある通り「不次第」なのであり、年長にあたる日朗や日昭が中心となって葬儀を執り行ったことは極めて自然なことと言えるでしょう。ここから考えても弘安5年9月や10月13日に『二箇相承』の相伝が存在したというのは考え難く、同文書は後世に作られた偽書の疑いが強いということになるでしょう。

以上3点にわたって書いてみました。
この点から見ても『二箇相承』が偽書の可能性がいかに高いか、わかるかと思います。
また『二箇相承』が仮に真蹟だとすると、同文書は北山本門寺に伝わってきたものです。『二箇相承』が北山本門寺に存在していたとする記録はありますが、大石寺にそれがあったという記録はありません。とするなら、本来の血脈相承は上条大石寺ではなく北山本門寺にあることになってしまいます。

「秘すべし秘すべし」とか言って、この辺を誤魔化す方が創価学会大石寺法華講の信徒さんに少なからず散見されますが、史料から客観的に史実を提示できなければ、正しいとは言えないのです。信心で拝そうが血脈に正統性を求めようが、それと史実は別の話です。史料による客観的な証明ができないなら、その宗派は単なる後世の虚偽の日蓮日興像を信じるように信徒に強要していることと同義になります。


参考文献
坂井法曄「大石寺東坊地相論と宗史雑感-榎木境道氏の批判を読んで-」『興風』26号所収、興風談所、2014年12月