いつもみなさん、ありがとうございます。
さて今回は『諸法実相抄』が偽書である可能性が高い根拠を少し書いてみたいと思います。
なぜ『諸法実相抄』が偽書なのか、理由は多岐にわたって考えられますが、私が考える2つの主な理由を以下に述べてみます。
1、日蓮真蹟や古写本が現存しない。
まずこれが最大の理由かと思いますが、『諸法実相抄』には日蓮真蹟も存在しないどころか、時代写本が現存しません。
『諸法実相抄』と同じように最蓮房宛と言われる遺文ではわずかに『立正観抄』に久遠寺3世日進写本、『祈禱経送状』に日朗門流の日像抄写本が存在するのみです。しかし『諸法実相抄』にはそれらの写本さえ存在しません。
では『諸法実相抄』が具体的に知られるようになったのはいつなのでしょうか? なんと『諸法実相抄』が初めて紹介されたのは寛文9年(1669年)の他受用御書からなのです。
したがって『諸法実相抄』は江戸時代に入って現れた遺文なのです。さらには真蹟も古写本も存在しない。これでは後世に作られた偽書と呼ばれても仕方ありません。
2、「一閻浮提第一の御本尊を信じさせ給へ」という一文と、述作年代との矛盾。
『諸法実相抄』には「一閻浮提第一の御本尊を信じさせ給へ」(創価学会版御書1361ページ)と書かれています。
どういうことなのかを詳しく書いてみましょう。少し長くなりますが、丁寧に一つ一つ読んでいってください。
まず『諸法実相抄』が書かれたとされる日付は文永10年(1273年)5月17日です。これは佐渡で同抄が書かれたということになります。
時系列を少し整理すると、この直前、文永10年4月25日に『観心本尊抄』が執筆されます。『観心本尊抄』では「一閻浮提第一の本尊此の国に立つ可し」(同254ページ)と書かれ、この年の7月8日に「佐渡始顕曼荼羅」と呼ばれる本尊を日蓮は書き始めます。
ところで『観心本尊抄』の執筆は文永10年4月25日ですが、その翌日4月26日に日蓮は『観心本尊抄送状』(副状)を富木常忍に送っています。この『送状』冒頭で日蓮は「墨三長・筆五官給び候い了んぬ」(同255ページ)と述べています。つまりこの時、日蓮は富木常忍から送られた墨と筆を受け取っていたということになります。
実は文永10年以前に書かれた本尊は「楊枝本尊」(楊枝の先を砕いて筆にして書いた本尊)だったり、筆跡から見ても染筆の良くないもので書かれ、諸菩薩が欠けており、未完成なものが多いのです。
上の画像は『観心本尊抄』真蹟ですが、日蓮の能筆もさることながら実に見事な筆致で書かれていることがわかります。つまり富木常忍に頼んでおいた筆が届き、それを使って日蓮は4月25日に『観心本尊抄』を書き、そして7月8日に「佐渡始顕曼荼羅」を書き表すことになるのです。
上の画像が文永10年7月8日の「佐渡始顕本尊」の写しです。
日蓮は佐渡で宗教的な確信を得て、その執筆のために富木常忍に筆の送付を依頼します。その結果、届いた新品の筆を用いて文永10年4月25日に『観心本尊抄』を、そして同7月8日に「佐渡始顕曼荼羅」を書くことになります。日蓮は佐渡始顕曼荼羅以降、初めて諸菩薩等が全て整足した本尊を書くようになります。
さて話が長くなりました。元に戻りましょう。
それなのに文永10年5月17日執筆とされる『諸法実相抄』には、なんと「一閻浮提第一の御本尊を信じさせ給へ」と書かれています。これは『観心本尊抄』で「一閻浮提第一の本尊此の国に立つ可し」と書いた翌月であり、「佐渡始顕曼荼羅」が書かれるよりも2ヶ月も前のことです。
4月25日に「此の国に立つ可し」とされ、5月にはまだ書かれていない筈の「一閻浮提第一の本尊」を、なぜ『諸法実相抄』で「信じさせ給へ」などと書けるのでしょうか?
ここから考えても『諸法実相抄』は後世の偽作の可能性が高いということになろうかと思います。
参考文献
注(※1)