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さて日興から日目へと「唯授一人」の相承がなされたように大石寺では主張しますが、その根拠となる事実は存在しません。
そもそも日興から日目へ与えられたとされる『日興跡条条事』は公開されていません。しかも筆跡がに日興のものと異なっており、書状には文字を意図的に削り落とした形跡さえ存在します。
「日興の筆跡」
「『日興跡条条事』は今日伝えられる形で成立していなかった」
「日興跡条条事について」
日興が唯一の弟子に自身の後事を託したという証拠は存在しません。あるのは本六、新六弟子で、師匠の日蓮が死の前、弘安5年10月8日に六老僧が選定し、6人の序列は「不次第」とされています。したがって日興もまた師匠の日蓮と同様に複数の弟子をとり、皆に教勢の拡張と研鑽を託したことが推察できます。
その意味では『日代八通譲状』も『日興跡条条事』も『二箇相承』も後世の偽作でしょう。しかしそれぞれの弟子たちが日興から後事をそれぞれに託されたことは想像に難くないと考えられます。
ところで、西山本門寺に現存する日興書写本尊(元亨4年8月29日)には右下に次のような脇書が遺されています。
「大石寺持仏堂本尊日代闍梨」
ここから考えると、日興は大石寺持仏堂の本尊を任せる「補任」として日代を指名していることになります。しかもこの本尊は元亨4年(1324年)のもので、既に日興は永仁6年(1298年)に大石寺の経営を日目に任せた後、20年以上が経過して後のことです。
「日興からの伝燈法師・日代。」