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さて今回は日興書写本尊について考えてみたいと思います。
「弘安10年日興本尊と戒壇本尊との相違」
そういう「事実」を指摘すると、一部の狂信的な日蓮正宗信者は「法主の内証を書写するのだ」と言い張って聞かなくなります。しかしながら『御本尊七箇相承』には「能く能く似せ奉るなり」と明確に書かれています。本尊書写は「よく似せて書かなければならない」ことがきちんと相承書で述べられているのです。
「能く能く似せ奉るなり。」
さて、そうなると、日興は何の本尊を元にして本尊書写をしたのでしょう。
興風談所や複数の研究者たちの指摘するところは、当時日興の近くに複数の日蓮真蹟本尊が存在し、日興はそれらを手本にしながら本尊書写をしたのであろうということです。
日興書写本尊で現存する最古のものは弘安10年のものです。そこから変遷していき、どのような本尊を書くに至るのでしょうか。
興風談所の『日興上人御本尊集』から眺めていくと、日興の本尊の後年の特徴として以下のようなことが概ね言えると思います。
・「有供養者福過十号」「若悩乱者頭破七分」の讃文は左右上方の両肩より、少し下、本尊中央から下にかけて、左右に2行ずつに分けて書かれることが多い。
・「讃者積福於安明」「謗者開罪於無間」の讃文も本尊下部左右に書かれることがある。
・図顕讃文は必ず「二千二百三十余年」(「三十」の略字は「丗」)と書かれ、戒壇本尊の「二千二百二十余年」と書かれた例は一つも存在しない。
・天台や伝教等の人師論師の列座で最も多いのは首題の右に妙楽、天親、龍樹で、左に天台、章安、伝教の六師であり、とりわけ初期から後期にわたって見られる。戒壇本尊には天親と章安の列座は見られない。
さてそれでは、そのような特徴を有する日蓮真蹟本尊とは具体的にはどれなのでしょう。
日蓮真蹟本尊、第54番(弘安元年8月、京都本能寺蔵)
特に第53番の本尊には右下に「日頂舎弟」への授与書が日興の筆によって添え書きされています(54番の右下部の授与書は何者かによって削損された形跡があります)。したがってこれらの日蓮真蹟本尊が少なくとも日興在世中に日興の手元に存在し、それらを手本として日興が本尊書写をしていたことが推察できるかと思います。