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創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

日興書写曼荼羅と戒壇本尊との相違。

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いつもみなさん、ありがとうございます。
さて弘安2年造立とされる大石寺蔵の戒壇本尊の相貌について、柳澤宏道氏がマイクロ写真からA0版まで拡大して解析した結果は冒頭の画像の通りになります。



ところで、『日興上人御本尊集』から一体一体曼荼羅の相貌を見比べてみて驚いたことなのですが、この弘安2年戒壇本尊と全く同じ相貌の日興書写曼荼羅は実は存在しません。



もちろん興風談所の調査では日興書写曼荼羅に曽存があることも可能性として否定していません。ところが現存・存在が確認される299幅の曼荼羅で、未調査の138幅を除く161幅の日興書写曼荼羅の中には、戒壇本尊と同じ相貌のものが一体も存在していないのです。



日蓮の真蹟曼荼羅で現存またその存在が確認できる曼荼羅数は、約200幅と言われています。その日蓮門流中で存在が確認できる曼荼羅が299幅存在するのは、門下中随一でして、日興の強い使命感のようなものさえ感じることができます。


日興書写本尊は基本的に生涯変わらず、弘安期の日蓮真蹟曼荼羅の形態に即して書写されていると考えられます。例えば四天王を梵名で書く例は弘安期の曼荼羅に見られるものかと思います。興風談所の見解としては「日興上人は御本尊を図顕するのではなく、あくまでも宗祖が御図顕された御本尊を書写するという意識で認められている」としていますが、私もこの意見にはおおむね同意します。


それにも関わらず、日興真蹟曼荼羅の中に戒壇本尊の相貌と同じものが存在しない、それらが伝えられていないとすれば、やはり日興在世中に戒壇本尊は存在していなかったことが容易に推論できるのかと思います。


まず戒壇本尊の相貌の特徴ですが、左右両肩部分に讃文である「有供養者福過十号」と「若悩乱者頭破七分」の二文が存在しません。
で、日興書写曼荼羅のうち、この讃文が書かれていない例は4例ありました。


1、弘安10年10月13日、宮城上行寺(No.1)
2、正和2年7月13日、佐渡世尊寺(No.120)
3、元応元年7月1日、佐渡世尊寺(No.166)
4、元亨2年6月15日、佐渡世尊寺(No.190)


ところがNo.1とNo.120の曼荼羅には、戒壇本尊に書かれている「南無龍樹菩薩」と「南無妙楽大師」が書かれていません。No.120とNo.166とNo.190の曼荼羅には2段目に大日天王と大月天王以外の大梵天王等が一切書かれていません。ちなみにこの三幅の曼荼羅には3段目に書かれるべき阿修羅王転輪聖王、阿闍世大王、大龍王提婆達多が一切書かれていません。
つまりこの4幅の曼荼羅戒壇本尊の相貌と相違しています。


そして更に指摘されるべきは、調査された161幅の日興書写曼荼羅中で図顕讃文に、戒壇本尊に書かれた「仏滅後二千二百二十余年」と書かれたものが一体も存在しないことです。
日興書写曼荼羅中、「仏滅度後」ではなく「仏滅後」と書かれた例は少なくとも3例存在することが確認されますが、私が見た限り「二千二百二十余年」と書かれた日興書写曼荼羅は存在しません。全て「二千二百三十余年」と書かれています。


日蓮の弘安期の真蹟曼荼羅を厳密に書写することで終始一貫していた日興の書写曼荼羅の中に、戒壇本尊と全く同じ相貌のものが存在していない、それらが全く伝わっていないということは、それだけで戒壇本尊というものが日興在世中に存在していなかったことの証明ではないかと私は考えています。