いつもみなさん、ありがとうございます。
さて以前、私は日興書写
曼荼羅の中に、
大石寺奉安堂蔵の
戒壇本尊と同じ相貌のものが一つもないことをブログで書いています。
日興書写の本尊でその存在が確認できる161幅全てを対照して見てみたのですが、
日蓮書写本尊を書写する意識の強い日興の書写本尊中には、なぜか1つも
戒壇本尊と同じ座配の
曼荼羅を見出すことができないのです。
この一つだけをとってみても、日興の在世中にまだ
戒壇本尊が存在していなかったということ、すなわち
戒壇本尊が後世の偽作であるということは疑い得ないと思います。
今回は『日興上人御本尊集』(興風談所、平成8年)掲載分から、日興最古の書写本尊(No.1、弘安10年10月13日、宮城上行寺蔵)と、熊田葦城『
日蓮上人』縮刷版(良書刊行会、大正5年)掲載の
戒壇本尊の画像とを対照して、その違いを具体的に見ていきたいと思います。
まず日興の弘安10年書写本尊の画像です。
この両者の本尊には、通常多くの
日蓮曼荼羅に書かれる「有供養者福過十号」「若悩乱者頭破七分」という讃文が書かれていません。その点ではこの二つは一致しています。
ところが、相貌といい、諸尊の位置といい、弘安10年日興本尊は、
戒壇本尊と全く異なり、およそ「
戒壇本尊を書写したとは言い難い」のです。
次に「南無天台大師」と「南無
伝教大師」の位置が全然違います。
ところが、
戒壇本尊で「南無天台大師」「南無
伝教大師」は下方には書かれていません。
戒壇本尊では「蓮」と「華」の字の間の左右に書かれています。位置が全く異なるのです。
また弘安10年日興本尊には、
戒壇本尊に書かれている「南無妙楽大師」や「南無
弥勒菩薩」「南無
普賢菩薩」が書かれていません。
もしも弘安10年の時点で、
戒壇本尊が実在したとして、日興が
戒壇本尊に書かれている諸尊を書かないで省くということがあり得るのでしょうか?
以上の点から考えても、
戒壇本尊は日興在世中に存在しなかった可能性が高く、単なる後世の偽作に過ぎなかったと考えるのが自然なことです。
今回は弘安10年日興本尊との対照をしてみましたが、どの日興本尊も
戒壇本尊に似せて写して書かれたと考えられる
曼荼羅は存在せず、調べれば調べるほど
戒壇本尊が偽物であることがよくわかってきます。