気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

和泉公日法のこと。




いつもみなさん、ありがとうございます。
さて弘安2年造立とされる大石寺戒壇本尊について、このブログではそれが後世の創作に過ぎないことを様々に書いています。



「弘安2年の戒壇本尊は日蓮の造立ではない」
「御座替本尊は戒壇本尊の書写ではない」
「日興書写曼荼羅戒壇本尊との相違」


今回、書きたいのは和泉公日法のことです。
日蓮正宗大石寺の公式な見解として、戒壇本尊は和泉公日法によって彫刻された、そしてその際に「最初仏」と称される小さな御影像が日法によって作られたとされています。


大石寺48世日量の『富士大石寺明細誌』によりますと次のように書かれています。



「彫刻は中老僧日法に之を仰せ付けらる(中略)作初の御影と号す又最初仏と称す、弘安二年日法戒壇本尊彫刻の時、右板の切端を以て末代の未聞不見の者の為に此像を造り蓮祖の尊覧に備ふ(中略)日法右板本尊並に此像を造り奉り称美の為に有職を彫尅阿闍梨と賜ふ、又此御影像日法作る所に相違無きの条自筆の手形一通之有り」
(日量『富士大石寺明細誌』富士宗学要集5-334〜335ページ)


大石寺の富士年表によりますと、和泉公日法は1258年の生まれです。弘安2年は1279年ですから、日法は戒壇本尊を彫刻した功績によって僅か21歳で「阿闍梨」号を賜ったことになります。
ところで、弘安2年の時点では日興はまだ阿闍梨号を授かっていません。つまり日興がまだ伯耆房と呼ばれ、白蓮阿闍梨を自称していないにも関わらず、その日興が教化したはずの日法の方が先に阿闍梨号を賜るというのは些か不自然なことになります。


ところで弘安5年、日興真蹟の『宗祖御遷化記録』では阿闍梨号について次のように書かれています。


「一弟子六人事  不次第
一、蓮花阿闍梨  日持
一、伊予公  日頂
一、佐土公  日向
一、白蓮阿闍梨  日興
一、大國阿闍梨  日朗
一、弁阿闍梨  日昭」
(日興『宗祖御遷化記録』日蓮正宗歴代法主全書第1巻、80〜81ページ)


つまり弘安5年に日興は「阿闍梨」号を授かっていることがここからわかります。
で、気になるところは和泉公日法が「阿闍梨」と書かれているのかという点です。
次のように書かれています。


「前陣  大国阿闍梨
出羽公
和泉公
但馬公
卿公

後陣  弁阿闍梨
信之公
伊賀公
摂津公
白蓮阿闍梨
(同83ページ)


葬送の列、前陣右に和泉公日法がいたことがわかりますが、ここでは単に「和泉公」と書かれ、「阿闍梨」号は付されていません。後陣左の日興はきちんと「白蓮阿闍梨」と書かれています。


もしも和泉公日法が本当に弘安2年に阿闍梨号を賜ったのだとすれば、日興がそれを記さず単に和泉公と書いていることは非常に不自然なことかと思います。


つまり日法が戒壇本尊を彫刻したということも、単なる後付けの捏造であり、史実とは異なると私は思います。