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創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

『日興跡條條事』は今日伝えられる形で成立していなかった。




いつもみなさん、ありがとうございます。



さて本日は大石寺に伝わる『日興跡條條事』の信用性の低さに関してです。
これについては、以前、ブログ記事で書いていますので、復習も兼ねて紹介してみます。未読の方はまず一度お読み頂くと良いかと思います。



「日興跡條條事について」



お読み頂ければわかるかと思いますが、そもそも『日興跡條條事』の正本と呼ばれるものの画像、また草案画像も既に複数の書籍で公開されていますので、正本の不自然な空白、削除された文字の跡など目で見て判別することが可能です。
加えて今回指摘したいのは、『日興跡條條事』が第9世の日有の時代、少なくとも15世紀頃までは今日伝えられる形でまだ成立していなかったという点です。



『日興跡條條事』の引用が大石寺文書に現れる初出は、第9世日有の教説を筆録した『連陽坊雑雑聞書』です。これは大石寺31世日因の写本が大石寺に現存していまして、これによれば『連陽坊雑雑聞書』は文明8年(1476年)5月23日に書かれたものです。
ではここで、どのように『日興跡條條事』が引用されているか、具体的に書いてみましょう。



「日興上人大石寺ノ御置文ニ云ク、天下崇敬ノ時ハ日目ヲ座主トシテ日本乃至一閻浮提ノ山寺半分日目之ヲ配領スヘシ、其ノ餘分自餘ノ大衆是ヲ配領スヘシト云ヘリ。日興ノ遺跡ハ新田ノ宮内卿阿闍梨日目最前上奏ノ人タレハ大石寺ノ別當ト定ム。異本ニ云ク、寺ト云ヒ御本尊ト云ヒ墓所ト云ヒト遊ハシ置キ玉ヒ畢ヌ。」
(『連陽坊雑雑聞書』日蓮正宗歴代法主全書1-383ページ)



これが歴史上最初の『日興跡條條事』の引用ですが、ここではまず『日興跡條條事』と呼ばずに日興の「御置文」としています。
では次に、この引用部分と対応すると考えられる『日興跡條條事』の最初の三箇条を引用してみます。また併せて興風談所発行の『日興上人全集』から正本の画像も載せてみます。



「一、本門寺建立之時新田卿阿闍梨日目為座主於日本国乃至一閻浮提之内山寺等半分者日目為嫡子分可令管領、所残半分自餘大衆等可領掌之。
一、日興宛身所給弘安二年大御本尊◯◯◯◯日目授与之、可奉懸本門寺。
一、大石寺者云御堂云墓所日目管領之加修理致勤行可待広宣流布也。」
(『日興跡條條事』日興上人全集、130ページ)

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この両者を見比べるといろんなことがわかってきます。箇条書きでわかりやすく書いてみましょう。



1、『連陽坊雑雑聞書』では日目を座主とする時として「天下崇敬の時」と書かれていますが、『日興跡條條事』第1条に同記述は存在せず「本門寺建立の時」と書かれています。

2、『連陽坊雑雑聞書』では、日目座主が山寺半分を「配領すべし」と書かれ、自餘の大衆に関しても余りを「配領すべし」と書かれていますが、『日興跡條條事』で日目は「管領」と書かれ、自餘の大衆は「領掌」と書かれていて、表現が異なっています。

3、『連陽坊雑雑聞書』には『日興跡條條事』で最重要である筈の第2条(弘安2年本尊)に関する記述が存在しません。

4、『日興跡條條事』第3条における「御堂と云ヒ墓所ト云ヒ」の文章の引用に関して、『連陽坊雑雑聞書』では「異本に云く」と書かれており、『日興跡條條事』とされる"置文"の内容がこの当時は複数の異本に分かれていたことが推察できます。



ここからわかるように、『日興跡條條事』という述作は、少なくとも文明8年(1476年)の時点で、今日に伝わる形式では成立していなかったことがわかります。
このことから見ても、大石寺9世日有の時代に複数の置文の"異本"が存在し、それが組み合わされて今日伝えられる『日興跡條條事』として歴史的に偽作されたことは疑い得ないと思います。




参考文献
東佑介「日興と池田大作をつなぐものー日興門流の思想と展開 第14回 日興の譲状」『宗教問題』24号所収、合同会社宗教問題、2018年