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「日興は身延から何も持ち出していない」
大石寺の『日興跡條條事』では「大石寺者云御堂云墓所日目管領之加修理致勤行可待広宣流布也」(日蓮正宗歴代法主全書1-96)と書かれていますが、身延沢に日蓮自身の墓があり、日興自身がそれを持ち出していないのは明らかなので史実と噛み合いません。
今回紹介したいのは『波木井殿御報』です。この中で日蓮が自身の墓について述べています。
「何処にて死に候とも、墓をば身延沢にせさせ候べく候」
(『波木井殿御報』昭和新修、2000ページ、創価学会版御書は1376ページ)
日蓮自身が墓を身延沢にしてほしいと述べています。
また興門流の文書である『五人所破抄』には次のような記述があります。
「抑身延一沢の余流未だ法水の清濁を分たず強いて御廟の参否を論ぜば汝等将に砕身の舎利を信ぜんとす何ぞ法華の持者と号せんや」
(『五人所破抄』創価学会版御書、1615ページ)
ここには「砕身の舎利」と書かれていまして、身延沢に日蓮の遺骨があったことはここからも疑い得ないと思います。
師の教えに厳格であった日興が、日蓮の遺言で身延沢に墓を建ててほしいと書かれていながら、その墓を暴いてまで富士に遺骨を持っていくことが可能性として考えられるでしょうか。私は有り得ないと思います。