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創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

『二箇相承』の矛盾。

 
 
 
いつもみなさん、ありがとうございます。
 
 
 
さて今回は『二箇相承』の相承の日付、その記録についてです。
 
大石寺日蓮から日興のみに唯一の血脈相伝がなされたとされる証拠として確かなものは全く残されていません。日蓮真蹟が一つもないのです。それ故に大石寺の主張する血脈相伝は史実としての信用性が低いのです。
 
『二箇相承』は『一期弘法抄』『身延山付属書』の二つから成りますが、それぞれの写本における日付は弘安5年(1282年)の「9月 日」と「10月13日」です。『一期弘法抄』の写本には「9月」のみで日付は記されていません。
ところが、これらの日付に日蓮から日興への付属があったとされる記録は大石寺には全く存在していないのです。
まず大石寺4世日道の『三師御伝土代』(正慶2年、1333年頃)です。日道の記録には日蓮伝にも日興伝の項にも弘安5年に日蓮から日興への血脈相承がなされたという記録は全く書かれていません。

 
上の画像は日道『三師御伝土代』(『日蓮正宗歴代法主全書』収録、1-263ページ)です。ご覧になればおわかりのように、弘安5年の項目はただ日蓮の逝去のことが記されるだけです。相承のことも戒壇本尊のことも何一つ記録されていません。
また以下の画像は同『三師御伝土代』の日興伝の部分(同267ページ)ですが、ここでは「興上一人正義をたつ」と書かれているだけで、ここにも日蓮から日興への血脈相承があったことは全く書かれていません。

さて『二箇相承』が歴史上最初に全文が載せられた初出の記録は左京日教『類聚幹集私』(『富士宗学要集』2-314ページ)です。
これを見ると驚くことになんと、日付が「弘安5年9月13日」「弘安5年10月13日」となっています。しかも更に驚くべきことに『身延山付属書』と『一期弘法抄』の内容が逆に書かれているのです。

この日付が紛失前の『二箇相承』の記録とするなら矛盾が生じます。日蓮は弘安5年9月8日、常陸国へ湯治のため、波木井実長から贈られた馬に乗り、身延を出発します。日蓮は衰弱し、池上邸に到着するのは同9月18日のことです。『波木井殿御報』では到着して翌日衰弱して筆がとれなかった日蓮の代わりに日興が代筆したことが書かれ、波木井への感謝が記されています。
それなら『二箇相承』は身延から池上邸への旅の途上、弘安5年9月13日に道すがら行われたということになってしまいます。それなら秘密の相承でも何でもありません。またこの時、日蓮が衰弱しており、筆もとれなかったことは『波木井殿御報』からも推察できることです。日蓮がどうしてそのような血脈相承を書いて遺すことができるのでしょう。日興は『二箇相承』の写本を遺していません。
 
 
「『二箇相承』のこと」
 
「『二箇相承』と『宗祖御遷化記録』との矛盾」
 
「二箇相承の不自然な読み下し」
 
「『二箇相承』写本の誤字」