いつもみなさん、ありがとうございます。
この萬福寺の伝承を少し書いてみたいと思います。
弘安5年(1282年)9月18日の夜のことです。病のため身延を出て常陸国に湯治に向かう日蓮は、大田区の池上宗仲邸(現在の池上本門寺)に行くことになるのですが、馬込のあたりで日蓮は病身と疲れのため、動けなくなってしまいます。
後日、萬福寺側に「馬込村へは我が宗旨は広めず」との日蓮の言葉が伝えられます。そしてその通り、戦前まで馬込には日蓮宗の寺院は一つもなかったのだそうです。また池上にも曹洞宗の寺院は1ヶ寺もなかったといいます。
これらの伝承は、萬福寺に寺伝として伝えられています。公式ホームページにも掲載されています。
私は日蓮と萬福寺に関するこれらの伝承をかつて知りませんでした。大石寺系や興門流の文書を見てもこれらの伝承は記録されていないからです。したがって私の中では伝承の域を超えず、事実かどうか確かなことはわかりません。ただその後の萬福寺と池上本門寺との良好な関係を見れば、両寺を結びつける遠因があったと考えるのが自然でしょう。日蓮系は「念仏無間地獄」「禅天魔」とまでした宗派です。それなりの理由がなければ両寺が友好な関係を築くことがあるとは思えません。
この萬福寺の伝承を事実と仮定するなら、以下のことがわかります。
思うに、日蓮の思想には他宗派を否定しつつも、他宗派を自分の中に包摂するアンビバレントな部分が存在しており、創価・大石寺系教団は彼ら自身の原理主義的な態度故にそのような日蓮像を受容できなくなっているのかもしれませんね。
「他宗批判と諸教包摂ということ」
「日天・月天のこと」
「金烏と玉兎」