気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

源信の教えについて。



いつもみなさん、ありがとうございます。



さて、最近は念仏思想を学ぶことが多い私などからすると、創価学会大石寺法華経を否定する法然念仏宗を毛嫌いするのはとてもよくわかるのですが、それなら「源信を学べばよいのになぁ」などと思ってしまいます。



恵心僧都源信(942〜1017)は『往生要集』を著わし、極楽往生こそ末法濁世の目となり足となる重要な教えとして、念仏の方法論を確立します。
彼は心のうちに阿弥陀仏を思い浮かべ、阿弥陀仏の姿を思い浮かべる「観想念仏」を提唱しますが、それができない、思い浮かべることのできない人たちのために「ただ南無阿弥陀仏と唱える称名念仏でも往生できる」とするのです。



ところが、源信は念仏の方法を確立すると同時に、実は比叡山における法華一乗の立場を闡明にした人物でもあります。
源信は『一乗要決』を著わし、この末尾で彼は「仏となる一乗の教えを深く信解する。願うところは阿弥陀仏の前に生まれ、法華経方便品に示された諸法実相の知見を得たい」と述べていまして、彼の中では阿弥陀仏の教えと法華経の教えとが何の矛盾もなく共存しているのです。



日蓮は元々は比叡山で学んでいましたから、この辺のこともよく知っていまして、だからこそ法華経を捨閉閣抛とした法然を否定しつつも、法華一乗の立場を表明した源信については『守護国家論』で肯定的に評価しています。



「念仏思想について」




源信は「朝法華、夕念仏」と呼ばれる比叡山の天台仏教の伝統を作った人物であり、彼の中で、法華経阿弥陀仏の教えはなんら矛盾していません。
実際に法華経を読めば、法華経の中にきちんと阿弥陀仏も出てくることがわかるのですが、大石寺系教団の方々はあまりこういったことに向き合おうとはされないようです。都合の悪いことに目をつぶることが多いからでしょうか。



法華経阿弥陀仏って」




翻ってみるに、そもそも日蓮が「南無妙法蓮華経」という唱題行を考案したのも、そのルーツを辿れば、阿弥陀仏の名前を称名すれば往生できるとした源信の教えを、法華経の題目に置き換えたものだとわかります。
源信の教えは、あくまで臨終の際の往生ですから、臨終行儀、亡くなる瞬間の念仏を重視しましたが、日蓮に関しては真言から即身成仏の教義を借りてきて、自身の教えに結びつけたというのが事実に近かろうと思います。検索してみればわかることですが、「即身成仏」という教義は空海が作り出した概念でして、法華経にはそもそも即身成仏は説かれていないのです。




空海こそ民衆仏法」




話を元に戻して、比叡山天台宗で、法華一乗の立場を闡明にしつつも、阿弥陀仏によって救われることを説いた源信は、日蓮の教えの一つのルーツのように思います。
比叡山の再興を願って、祭政一致国家を願い、国家の加持祈祷を自身が夢見た日蓮から見れば、やはり源信比叡山の法華一乗を立てた人物であり、大石寺系教団の門流などはもう一度源信を評価してもよいのではないかと思います。
源信の『往生要集』はその大部分が経文の引用から成るのですが、後年の法然親鸞とは違ってきちんと法華経も引用されています。




参考文献
中村元『往生要集』岩波書店、1983年