気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

日道は日興の葬儀に参列していない。

 
 
 
いつもみなさん、ありがとうございます。
 
 
 
 
さて大石寺3祖日目から4世日道に対して「唯授一人の血脈相伝」があったことを大石寺側は主張するのですが、実は日目から日道への相承があったことを裏付ける根拠は全く存在せず、京都要法寺日辰『祖師伝』によれば小泉久遠寺側からは「是ノ故に大石寺は日目日道に付属せず日道付属の状之レ無し」とまで断定されてしまっているのです。
 
「日目から日道への相伝はなかった。」
 
「妙本寺文書から見る日目から日郷への相伝の事実。」
 
そもそも日蓮は『宗祖御遷化次第』で明らかなように「六老僧」を弟子と定め、その序列を「不次第」としています。また日興も本六(日華、日目、日秀、日禅、日仙、日乗)と新六(日代、日澄、日道、日妙、日郷、日助)を弟子としています。つまりここからわかるように、日蓮=日興の弟子を選出する方法は、原則複数の弟子をとる形で、いわゆる「唯授一人」という形式を採ったことは一度もないのです。六老僧の日朗もまた「朗門の九鳳」とし、9人の弟子を門弟としているのです。
 
ところで、日興は正慶2年(1333年)2月7日に亡くなりますが、この時の葬儀に何と日目が参列していながら、日道は参列していないのです。
具体的に見てみましょう。以下は宰相阿闍梨日郷が記した『日興上人御遷化次第』(日郷真蹟は保田妙本寺蔵)です。全てのページを載せてみますが、この中には「弁阿闍梨」「伯耆阿闍梨」等と号される筈の日道は全く出てこないのです。出典は『日蓮宗宗学全書』2-270〜278ページになります。

これを見ると葬列の前陣中央には上蓮坊「日仙」、またその左右に大進公「日助」、式部阿闍梨「日妙」等の名前が見えます。また後陣中央は蓮蔵坊「日目」、左右には伊予阿闍梨「日代」、宰相阿闍梨「日郷」が連なっています。御遺物配分事のところには寂日坊「日華」、理鏡坊「日秀」の名前も見えます。
ところが、いくら見ても、この中には「弁阿闍梨」「伯耆阿闍梨」と号される筈の「日道」の名前が出てきません。つまり日道は日興の葬儀に参列していないのです。
 
1333年は日興の没年であり、同時に日目の没年になる年でもあります。日蓮正宗の見解ではこの年の11月に京都に天奏に向かうため日目から日道に相承が授けられたと主張しています。それなら日目本人が参列しているにもかかわらず、日興の新六の一人である筈の日道がなぜ日興の葬儀に参列していないのでしょう?
 
ここから考えても当時の日道が「大石寺に住持していなかった」「日道が大石寺全体を統括するような立場にはなかった」ことが考えられるでしょう。そもそも『日興上人御遷化次第』を記録しているのは日道ではなく、日郷なのです。