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当時、鎌倉にあった日蓮は、自らの信仰のために幕府からの召し出しに臨む彼らに書を与えて、その心構えを指導したのが『問注得意抄』ということになります。
日蓮からの指示は非常に具体的で、当時の状況が緊迫していたことが伝わってきます。
「今日の御出仕・公庭に望んでの後は設い知音為りと雖も傍輩に向つて雑言を止めらる可し」
「両方召し合せの時・御奉行人・訴陳の状之を読むの尅何事に付けても御奉行人の御尋ね無からんの外一言を出すべからざるか」
「設い敵人等悪口を吐くと雖も各各当身の・一二度までは聞かざるが如くすべし、三度に及ぶの時・顔貌を変ぜず麤言を出さず輭語を以て申す可し」
「各各は一処の同輩なり私に於ては全く遺恨無きの由之を申さる可きか、又御供雑人等に能く能く禁止を加え喧嘩を出す可からざるか」
(創価学会旧版御書全集178ページ)
中尾堯氏の研究によるなら、富木常忍らの事件は検断沙汰に該当し、「謀反」の項によって訴えられたことが推定できます。鎌倉幕府の体制下においては富木常忍らの問注は鎌倉の問注所ではなく、下総守護千葉氏の館において行われたことが考えられます。
守護であり主君でもある千葉介頼胤自らが隣席した緊迫した裁判の中で、富木常忍と同じ立場にある守護の被官の武士たち、また千葉氏一族の面々が連なることは間違いない状況になります。その中でかねてから「知音」「傍輩」の者たちによる訴陳はかえって激しいものとなります。激昂した訴人たちが悪口を吐くことも予想でき、互いに知己のあるものたちが「喧嘩」沙汰になることも考えられる状況です。
日蓮はここで「悪口を吐かれても一二度までは聞かないように」「三度まで言われた時は顔色を変えずに悪口で返さず、軟らかい言葉で対応するように」「喧嘩をしてはならない」と指示をしているのです。
彼らほど激しく他者を誹謗中傷し、自身の教説を批判された時に相手を揶揄して冷笑し、罵詈雑言を浴びせることが果たして日蓮の深慮に叶った行為と言えるのでしょうか。
「非難中傷行為を繰り返す過激な創価学会系アカウント」
「不軽菩薩の精神から見れば」
「罵詈雑言も辞さない池田原理主義者」
「「もっとん」さんのツイート」
参考文献