気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

「祈りとして叶わざるなく」は日寛の言葉。




いつもみなさん、ありがとうございます。



さて創価学会日蓮正宗信徒の方はよく「祈りとして叶わざるなく」の御本尊ということを述べたりします。
実はこの言葉は日蓮の言葉ではなく、大石寺26世日寛の言葉です。
正しくは日寛の『観心本尊抄文段』(観心本尊抄愚記)に出てくる言葉です(阿部日顕監修、創価学会教学部編『日寛上人文段集』443ページ、聖教新聞社、1980年)。


ところで、こういうことを言うと必ず反論する創価系信徒の方がいます。「日蓮大聖人は『法華経の行者の祈りのかなはぬ事はあるべからず』と述べている。同じ趣旨のことなのだから構わないのではないか?」
そうですね。その文は正しく日蓮の『祈禱抄』に載る文です(創価学会版御書全集1352ページ)。
では、それなら日蓮の「法華経の行者の祈りのかなはぬ事はあるべからず」という言葉を使えば良いのであって、日寛の「祈りとして叶わざるなく」を使うべきではないでしょう。
なぜ「祈りとして叶わざるなく」を使うべきではないのか、そもそも日寛が考える根本の本尊とは弘安2年造立説の戒壇本尊のことなのです。もし日寛の「祈りとして叶わざるなく」を使うなら、それは大石寺奉安堂蔵の戒壇本尊を根本としなければ自語相違になってしまいます。
以下に当該ページの画像を載せますが、日寛は『観心本尊抄文段』で「就中弘安二年の本門戒壇の御本尊は、究竟中の究竟、本懐の中の本懐なり」とちゃんと述べています(同452ページ)。



戒壇本尊は後世の贋作に過ぎない事は、このブログで繰り返し述べているところですし、また創価学会は2014年11月18日、教義会則を変更して「戒壇本尊」を「受持の対象としない」ことを決定しています。


「後世の贋作に過ぎない弘安2年戒壇本尊」

創価学会の本尊定義の矛盾」


つまり日寛の「祈りとして叶わざるなく」を創価学会員が引用するなら、それはその前提として「弘安2年造立説の戒壇本尊を根本とする」という日寛説を否定できなくなってしまうのです。
2014年に教義会則変更で戒壇本尊を受持の対象としないと決めたのなら、日寛の『観心本尊抄文段』の「祈りとして叶わざるなく」という言葉は使うべきではありません。なぜならその祈りを叶えるためには「戒壇本尊を根本とする」という日寛の前提と矛盾してしまうからです。