いつもみなさん、ありがとうございます。
さて
創価学会や
日蓮正宗信徒の方はよく「祈りとして叶わざるなく」の御本尊ということを述べたりします。
実はこの言葉は
日蓮の言葉ではなく、
大石寺26世日寛の言葉です。
ところで、こういうことを言うと必ず反論する
創価系信徒の方がいます。「
日蓮大聖人は『
法華経の行者の祈りのかなはぬ事はあるべからず』と述べている。同じ趣旨のことなのだから構わないのではないか?」
そうですね。その文は正しく
日蓮の『祈禱抄』に載る文です(
創価学会版御書全集1352ページ)。
では、それなら
日蓮の「
法華経の行者の祈りのかなはぬ事はあるべからず」という言葉を使えば良いのであって、日寛の「祈りとして叶わざるなく」を使うべきではないでしょう。
なぜ「祈りとして叶わざるなく」を使うべきではないのか、そもそも日寛が考える根本の本尊とは弘安2年造立説の
戒壇本尊のことなのです。もし日寛の「祈りとして叶わざるなく」を使うなら、それは
大石寺奉安堂蔵の
戒壇本尊を根本としなければ自語相違になってしまいます。
以下に当該ページの画像を載せますが、日寛は『
観心本尊抄文段』で「就中弘安二年の本門
戒壇の御本尊は、究竟中の究竟、本懐の中の本懐なり」とちゃんと述べています(同452ページ)。
戒壇本尊は後世の贋作に過ぎない事は、このブログで繰り返し述べているところですし、また
創価学会は2014年11月18日、教義会則を変更して「
戒壇本尊」を「受持の対象としない」ことを決定しています。
つまり日寛の「祈りとして叶わざるなく」を
創価学会員が引用するなら、それはその前提として「弘安2年造立説の
戒壇本尊を根本とする」という日寛説を否定できなくなってしまうのです。
2014年に教義会則変更で
戒壇本尊を受持の対象としないと決めたのなら、日寛の『
観心本尊抄文段』の「祈りとして叶わざるなく」という言葉は使うべきではありません。なぜならその祈りを叶えるためには「
戒壇本尊を根本とする」という日寛の前提と矛盾してしまうからです。