気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

『聖人御難事』を出世の本懐の根拠とした最初の人物は大石日応である。

 
 
いつもみなさん、ありがとうございます。
 
 
 
さて日蓮正宗戒壇本尊が弘安2年に造立されたとする説を採っているのですが、その根拠にしている日蓮遺文は『聖人御難事』です。
ところがここに出てくる「余は二十七年なり」という文はそんなことを書いた文ではありません。
 
 
「『余は二十七年なり』って」
 
 
 
上記のブログから再掲してみましょう。
 
 
「……此の法門申しはじめて今に二十七年・弘安二年なり、仏は四十余年・天台大師は三十余年・伝教大師は二十余年に出世の本懐を遂げ給う、其中の大難申す計りなし先先に申すが如し、余は二十七年なり其の間の大難は各各かつしろしめせり」
『聖人御難事』創価学会版御書全集、1189ページ)
 
 
これが大石寺の方々に言わせれば弘安2年の戒壇本尊を顕した文証、出世の本懐を遂げた文証なのだそうですが、どう読んでも次のような意味にしかとれません。
 
 

「教主釈尊は約40年、天台大師は約30年、伝教大師は約20年をかけて出世の本懐を遂げられた。その間それぞれ法難を受けてきたことは申すべくもない。日蓮もまた本懐を遂げんと立教開宗以来、27年間戦ってきたが、その間の大難は御存知のことであろう。」

 
加えて『聖人御難事』が執筆された日付は「弘安2年10月1日」です。大石寺戒壇本尊造立を主張する日は「弘安2年10月12日」であって、この時点では戒壇本尊はまだ建立されていないはずです。まだ作られていない時期の述作を用いて、どうして作られた証明とできるのでしょうか。

 
ところで、この『聖人御難事』の「余は二十七年なり」を拡大解釈して、日蓮戒壇本尊造立を「出世の本懐」とする根拠とした最初の人は誰なのでしょうか。
それは大石寺56世大石日応(日應)です。
大石日応の『弁惑観心抄』から引用してみましょう。
 
「以上、寛記に示すが如く、弘安二年十月、本門戒壇の大本尊を顕すをもつて出世の本懐を成就せりと言うべし。故に、宗祖の云わく、
『去ぬる建長五年太歳癸丑四月二十八日(中略)此の法門申しはじめて今に二十七年、弘安二年太歳癸丑なり。仏は四十余年、天台大師は三十余年、伝教大師は二十余年に、出世の本懐を遂げ給ふ。其の中の大難申す計りなし。先々に申すがごとし。余は二十七年なり云云』
この御文意を深く考うべきなり。余は建長五(一二五三)年より二十七年、弘安二年十月、本門戒壇の本尊を顕し、出世の本懐を究尽し給うべきとの聖意にほかならざるなり。」
(大石日応『弁惑観心抄』348ページ、大日蓮出版、明治27年

『聖人御難事』の「余は二十七年なり」を「出世の本懐」を日蓮が遂げたという根拠に仕立て上げていますが、先述したように『聖人御難事』の文をきちんと読めば、単に日蓮自身が大難を受けてきたということしか書いていません。そして「余は二十七年なり」を無理矢理に「出世の本懐」の依文と曲解した最初の人物こそ、大石寺56世の大石日応なのです。
 
日応の『弁惑観心抄』引用の前段では、大石寺26世日寛の『観心本尊抄文段』が挙げられています。
日寛は、確かにここで弘安2年戒壇本尊を「蓮祖出世の本懐」としていますが、ここで日寛は『聖人御難事』は引用していないのです。
 

画像は『日寛上人文段集』(阿部日顕監修、創価学会教学部編、聖教新聞社、昭和55年)の『観心本尊抄文段』の該当部分ですが、日寛はここで戒壇本尊を出世の本懐とするのに『聖人御難事』を根拠としてここで引用してはいません。
大石日応以前に、大石寺で「出世の本懐」の根拠として「余は二十七年なり」を引用する議論は存在しなかったのです。
 
つまり現在の創価学会日蓮正宗大石寺の主張する、「余は二十七年なり」を「出世の本懐の根拠」とする議論は、明治に入って大石日応が最初に言い出したことなのであり、それ以前に『聖人御難事』を無理矢理に戒壇本尊に結びつける議論は存在しなかったということになります。