気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

『三師御伝土代』に戒壇本尊のことは書かれていない。

 
 
いつもみなさん、ありがとうございます。
 
 
さて今回は大石寺4世日道の『三師御伝土代』から、戒壇本尊の後世偽作説を考えてみたいと思います。このことは以前にもブログで少し書いたのですが、今回は『日蓮正宗歴代法主全書』第1巻(日蓮正宗、昭和47年)から具体的に該当ページの画像を掲載してわかりやすく書いてみたいと思います。なおこの『三師御伝土代』については、近年、日道作ではなく大石寺6世日時著作説が提起されていますが、この記事中ではあえて日道の著作であることを前提にしています。
 
 
まず『三師御伝土代』は日蓮の生誕日を「2月16日」とする、日蓮門流中では最古の文献です。成立年代は不明ながら『歴代法主全書』では正慶2年(元弘3年、1333年)とされています。つまり日興や日目逝去の年の文献ということになります。
 
 
全体は大きく3部に分かれています。
 
1、日蓮の御伝
2、日興上人御伝草案
3、日目上人御伝土代(未完)
 
最後の日目伝については、日目と道智房との問答が書かれた後、絶筆となり、日目の御伝土代は未完成のまま遺された形になっています。
 
まず最初に日蓮の御伝から見てみましょう。
日蓮の晩年は弘安ですが、元号が並記されています。しかしながら建治から弘安元年への改元が記された後、なんと弘安5年の遷化まで一切、記録が残されていないのです。画像でご確認ください。(前掲書263ページ)

 
仮に日蓮戒壇本尊を弘安2年に造立したと仮定して、それが日道の代に存在していたのなら、なぜここで日道がそれを省略するなどということがあり得るのでしょう。
ここから考えても、『三師御伝土代』成立の正慶2年(1333年)時点で、戒壇本尊というものは存在していなかったことになります。
 
次に「日興上人御伝草案」からみてみましょう。ここでは熱原の法難のことが描かれています。
 
「さてあつわらの法花宗二人くひをきられおハん、その時大聖人御かんあつて日興上人と御本尊にあそはすのみならす、興の同弟子日秀・日弁二人上人かう(号)し給」
(同266ページ)

 
まず第1部の「日蓮の御伝」で弘安2年に戒壇本尊の項目が存在しないことが既に矛盾ですが、加えてこの「日興上人御伝草案」では、熱原の信徒が首を斬られた際に、日蓮に感ずるところがあって「日興上人」と御本尊に書いたこと、日秀と日弁に上人号が贈られたことが記録されています。
奇妙なことですが、ここでいう「御本尊」は戒壇本尊ではありません。そもそも戒壇本尊に「日興上人」などとは書かれていません。またその御本尊の由来も何も書かれていません。これが出世の本懐であるかも書かれていませんし、板本尊であることも全く書かれていません。戒壇本尊が日蓮出世の本懐・帰命依止の根本本尊であるのなら、大石寺4世の法主がそのことを書いていないのは大変に不自然なことになります。
 
このことから考えても1333年時点で、まだ戒壇本尊はこの世に存在しなかったこと、それは日蓮日興在世中に作られたものではなく、もっと後世に作られた偽作であることがよくわかるかと思います。