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創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

中国仏教における「三諦」「空仮中」は、龍樹の本意と異なる。

 
 
いつもみなさん、ありがとうございます。
 
 
さて今回は龍樹の述べる「中道」と天台教学における「空仮中の三諦」についてです。
 
 
龍樹(ナーガールジュナ)における「中道」の語は、実は『中論』において第24章の第18詩に言及されているのみです。
したがって中道を考察するには、この『中論』第24章第18詩を依拠としていかなければいけません。
中村元氏の訳と、原文を対照して以下に書きます。訳の典拠は中村元氏の『往生要集-古典を読む』(岩波書店、1983年)所収のものを載せ、原文については同書収録のもの、および西嶋和夫氏訳注の『中論(改訂版)』(金沢文庫、2006年)を対照して確認したものを以下に書いてみます。
 
 
「縁起なるものを、われわれは空と説く。
それは仮名であって、それはすなわち中道である。」
 
yaḥ pratītyasamutpādaḥ śūnyataṃ tāṃ pracakṣmahe,
sā prajñaptir upādāya pratipat saiva madhyamā.
 
 
これが鳩摩羅什の漢訳では以下のように訳されます。
 
衆生縁生法。我説即是無。亦為是仮名。亦是中道義。」
 
 
これが中国に至り、天台宗三論宗では以下のように変更されます。
 
 
「因縁所生法。我説即是空。亦為是仮名。亦是中道義。」
 
 
日本ではどうでしょうか。恵心僧都源信比叡山の学僧ですが『往生要集』等でやはり後者の天台宗の文句に従っています。
天台宗の理解するところでは、この詩句は空・仮・中の三諦(三つの見方としての真理)を示す「三諦偈」として呼ばれるようになります。
 
 天台宗におけるこの三諦偈の趣旨は、因縁によって生ぜられたものは空であり、空は一つの真理だが、それを特殊な原理と考えてはならない。空というのも仮に設けられたもので(仮名)、空を実態視してはならないとします。また「空をさらに空じたところの境地」(中村元)に中道が現れます。因縁によって生ぜられた事物を空とするので「非有」であり、その空をも空じる故に「非空」であり、このようにして「非有非空の中道」が成立することになります。つまり中国天台宗等の中国仏教では中道は「二重の否定」を意味します。つまり中国仏教ではこのような弁証法的な認識論の立場をとることになります。ここから天台の三諦説や三観説が立てられることになります。そしてあらゆる事象を「空仮中の三諦」から考察すべきとします。
 
日蓮ではどうでしょう。日蓮比叡山天台宗の流れを汲んでいますので、多用されると思いきや、「三諦」や「空仮中」という用例は日蓮真蹟にはあまり出てこないのです。
以下に整理してみましょう。( )内の数字は創価学会旧版御書全集の用例が書かれたページを示します。
 
 
①「三諦」の用例
 
【真蹟現存または曽存】
『撰時抄』(267)、『報恩抄』(303)、『諫暁八幡抄』(579)
 
【時代古写本のみ】
『立正観抄』(日進写本、531、532)、『立正観抄送状』(日進写本、535)
 
【真蹟不存】
『一念三千理事』(408)、『十如是事』(410)、『一念三千法門』(412、413)、『聖愚問答抄』(486)、『当体義抄』(512)、『総勘文抄』(573、574)、『御義口伝』(716、717、722、724、737、744、745、755、764、772、775、777、782、785、789、791)、『御講聞書』(811、812、818、820、826、836、837)、『本因妙抄』(871、872、876)、『十八円満抄』(1,363、1,364、1,365、1,366)
 
 
②「空仮中」の用例
 
【真蹟現存または曽存】
『顕謗法抄』(457)
 
【時代古写本のみ】
なし
 
【真蹟不存】
『御義口伝』(737、755、782)、『御講聞書』(812、836)
 
 
見てお分かりの通り、日蓮はほとんど「三諦」や「空仮中」という語を使っていません。「三諦」の語は真蹟でわずかに『撰時抄』『報恩抄』『諫暁八幡抄』の3箇所で言及されただけです。また「空仮中」に関しては真蹟では身延曽存の『顕謗法抄』の1箇所しか存在しません。
そして「三諦」や「空仮中」の用例は、真蹟不存で偽書の疑いの強い『御義口伝』や『御講聞書』で多用されます。特に『御義口伝』は極端で、同抄だけで「三諦」用例は16箇所、「空仮中」は3箇所に書かれています。『御義口伝』がここからも偽書の疑いの可能性が高いことがわかるかと思います。
 
 
さて本題に戻りますが、このような龍樹の中道義を「三諦」や「空仮中」と捉えることは釈迦や龍樹の本義に叶っているのでしょうか。
中村元氏は以下のように述べています。
 
「そして天台宗ではこのような見解にもとづいて、<三観>の説を立てるに至った。あらゆる事象を、「空」「仮」「中」という三つの見方から考察すべきであるというのである。
しかし、これはナーガールジュナの原意ではない。サンスクリット原文およびインドの諸注釈によってみると、右の詩句は、縁起、空、仮名(諸条件に縁って仮りに設定されていること)、中道という四つの概念が同趣旨のものであるということを説いただけなのである。
もちろんわれわれはシナ仏教思想の独自の意義を認めるのにやぶさかではない。ただわれわれとしては、シナ仏教における解釈がインドのもとのものと違うということを指摘するのである。」
中村元『往生要集-古典を読む5』岩波書店、1983年)

 
つまり「三諦」や「空仮中」等の一心三観説は、本来の龍樹の『中論』の三諦偈を拡大解釈して成立した中国仏教の見解に過ぎず、それは本来の龍樹(ナーガールジュナ)の思想とは異なることになります。三諦偈は本来、ここで中村元氏が指摘されているように「縁起、空、仮名、中道という四つの概念が同趣旨のものであるということを説いただけ」のものなのです。
 
 
 
参考文献
中村元『往生要集-古典を読む5』岩波書店、1983年
中村元『龍樹』講談社学術文庫、2002年
西嶋和夫訳注『中論』改訂版、金沢文庫、2006年