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創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

九識説は真諦が起源であり、日蓮は九識本性説を唱えていない。

 
 
いつもみなさん、ありがとうございます。
 
 
 
さて今回は唯識思想からの「九識」説について、また日蓮の思想中における九識説の位置についてです。
 
 
大乗仏教の系譜で、瑜伽行唯識学派は無著(アサンガ)と世親(ヴァスバンドゥ)ですが、通常大乗における唯識思想は第八識までを指します。すなわち眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識の六識があり、その奥に末那識という潜在意識が想定され、さらに深奥に阿頼耶識という第八識があるというのが通常考えられる唯識思想です。
 
ところが、この上に第九識としての阿摩羅識を想定し、九識説を唱える系譜が存在します。
そしてこの九識説は天台智顗にも流入することになります。
そもそもこの九識説の「阿摩羅織」とは、その起源はどこにあるのか、それを問い詰めるとそれは真諦(パラマールタ、499〜569)にあることがだんだんわかってきました。
身延山大学教授で文学博士の岩田諦静氏の見解によるなら「阿摩羅織」の語は真諦訳の『決定蔵論』『十八空論』『三無性論』『転識論』等に説かれています(岩田諦静「真諦の唯識説の特色について」356ページ、『印度学仏教学研究』第50巻第1号所収、平成13年12月)。

真諦の訳経は真諦の疏釈と一緒に書かれるのが特徴でして、真諦は訳を試みつつ「阿摩羅織」を自説として述べていることになります。
岩田氏によれば真諦が「阿摩羅織」と訳出したものは、チベット訳『瑜伽論』の「転依」(āśraya-parivrtti)と「浄識」(viśuddha-vijñāna)なのだそうです。同氏の指摘によるなら、これは玄奘訳『解深密経』巻第一の序品に「最極自在の浄識を相と為す」と説かれ、これが真諦訳『摂大乗論』巻下に説かれるのだそうです(同355ページ)。

この浄識、すなわち九識説が後世に影響を与え、智顗の『法華玄義』にも説かれることになります。真諦は『摂大乗論』から摂論宗の祖とされますから、本来九識説は唯識思想の系譜、摂論宗の真諦から天台宗に取り入れられたものということになるでしょう。したがって九識説は天台宗等や法華経等から始まった教義ではないことになります。
 
では実際、日蓮の真蹟では「九識説」は果たして述べられているのでしょうか。調べてみたところ、以下のようになりました。
 
「九識」の日蓮による用例
 
日蓮真蹟】
『大学三郎殿御書』(真蹟平賀本土寺)1箇所
 
【真蹟不存、古写本不存】
『御義口伝』7箇所
『御講聞書』5箇所
『日女御前御返事』1箇所
『十八円満抄』2箇所
『上野殿後家尼御返事』1箇所
 
 
なお日蓮遺文中に「阿摩羅織」や「浄識」という用例は見出せませんでした。
ということは、全17箇所の「九識」の用例がありながら、その中で日蓮真蹟に見出されるのはわずかに『大学三郎殿御書』の1箇所のみということになります。これでは「九識説」を仏性という意味で日蓮が使ったということにはなり得ないように思います。
 
加えて使われ方を見てみましょう。例えば『御講聞書』では「九識本覚」「九識本性」「九識本法の法体」、また『日女御前御返事』では「九識心王真如の都」と説かれる九識の本体の仏性が積極的に説かれています。しかし『御講聞書』も『日女御前御返事』(建治3年説)もともに真蹟・古写本ともに不存の偽書説の可能性が高いものです。
真蹟が平賀本土寺に現存する『大学三郎殿御書』ではどうでしょう。ここでは「天台は九識十識」「真言は十識十一識」(創価学会旧版御書1204ページ)とあり、真言が十識説を天台から奪い取ったことが主張され、真言批判が説かれています。この中には「九識」を殊更に「仏性」や「浄識」と考える説は存在していません。

したがって『日女御前御返事』に説かれるような「九識心王真如の都」のような九識説は本来日蓮の思想ではない可能性が高いことになるでしょう。
 
 
参考文献
岩田諦静「真諦の唯識説の特色について」『印度学仏教学研究』第50巻第1号所収、平成13年12月。