気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

大石寺6世日時書写本尊と戒壇本尊との相違。

 
 
いつもみなさん、ありがとうございます。
 
 
 
さて今回は大石寺歴代法主の書写本尊の相貌と戒壇本尊との相違を検証するシリーズです。
 
 
「日興書写曼荼羅戒壇本尊との相違」
 
「弘安10年日興本尊と戒壇本尊との相違」
 
大石寺3祖日目書写本尊と戒壇本尊との相違」
 
大石寺4世日道書写本尊と戒壇本尊との相違」
 
大石寺5世日行書写本尊と戒壇本尊との相違」
 
大石寺9世日有書写本尊と戒壇本尊との相違」
 
 
今回は大石寺6世日時書写本尊を見てみたいと思います。
ところで、大石寺6世日時が書写した本尊は多数残されていまして、私が私的に集めた史料だけで15幅の本尊画像が確認できます。全てをここに載せると煩瑣になりますので、2幅ほどの掲載に限らせていただきます。
 
 
まず最初に応永9年(1402年)10月13日書写、柳目妙教寺蔵の日時書写本尊です。

 
次に応永11年(1404年)卯月日書写、森上行寺蔵の日時書写本尊です。

 
日時の書写本尊は整然と書かれた印象があり、勧請された各文字も大きさや位置まで整頓されて丁寧に書かれています。
さて、これと戒壇本尊との相貌を比べてみると以下のことがわかります。

1、戒壇本尊に書かれない「有供養者福過十号」「若悩乱者頭破七分」が書かれ、さらに「謗者開罪於無間」「讃者積福於安明」も書かれている。
 
2、「南無天台大師」と「南無妙楽大師」の位置が左右逆になっている。
 
3、讃文が「仏滅度後二千二百三十余年」となり、戒壇本尊の「仏滅後二千二百二十余年」と相違する。
 
 
以上、3点が相違します。
細かいことを言えば書かれる位置等、さまざまに相違点を指摘できますが、ここでは上の概ね3点のみに指摘をとどめておきましょう。
私は戒壇本尊が後世の偽作であり、偽作された時期はおおよそ「大石寺6世日時〜大石寺14世日主」の時代のどこかであると考えています。
しかしながら大石寺6世日時にも、また大石寺9世日有にも戒壇本尊と相貌が同じものが存在しない以上、そもそも「大石寺法主戒壇本尊を書写して本尊を下付する」という教義は、後年に創作されたものでしかないと考えられます。彼らにあってはまず戒壇本尊の偽作、本尊堂の建立による大石寺の権威化が先にあるのであって、教義の整理は後世に入って徐々に作られたのでしょう。
 
 
また日時書写本尊では、日興や日有に見られるように「有供養者福過十号」「若悩乱者頭七分」を1行ではなく2行に分けて書く書法を採っています。これらは現在の大石寺法主の書法とも異なっています。現在の大石寺法主は両讃文を1行で縦に書くのが通例になっている筈です。

つまり大石寺における本尊の書き方も、最初から決まっていたのではなく、歴史的に少しずつ形成されてきたものなのであり、細かい相伝など存在せず、後出しで作られた可能性が高いことになります。
 
 
 
参考文献
『御本尊集 奉蔵於法寶』日目上人奉讃会、平成12年
柳澤宏道『石山本尊の研究』増補版、はちす文庫、平成25年