気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

戒壇本尊は1472年以降に偽作された。

 
 
いつもみなさん、ありがとうございます。
 
 
 
さて私の素朴な疑問なのですが、そもそも大石寺9世日有は応仁元年(1467年)、第10世日乗に血脈を付嘱して一度隠居します。ところが、隠居した後の大石寺のことがどうにも私の腑に落ちないのです。
 
この辺の相承の断絶の可能性についてはブログでも一度書きました。
 
「9世日有から日乗、日底、日鎮への相承。」
 
9世日有から10世日乗に相承されたのが1467年です。そして記録によるなら10世日乗から11世日底に相承がされたのが1472年とされています。
それなのに、なぜか31世日因の『有師物語聴聞抄佳跡』に記録された9世日有の発言によるなら「留守居此の寺を捨て除き候間六年まで謗法の処に成リ候間」とされているのです。
 
大石寺を逃げ出した留守居。」
 
具体的に挙げてみましょう。
以下に大石寺31世日因の『有師物語聴聞抄佳跡』の当該部を再掲してみます。
 
「末代大切なる子細にて候間此の沙汰を成ぜんが為メニ三人の留守居を定メて候えば如何様の思案候ひけるや、留守居此の寺を捨て除き候間六年まで謗法の処に成リ候間、老僧立帰り高祖聖人の御命を継ぎ奉り候、さ候間一度謗法の処と成り候間、又地頭奥津方より廿貫ニ此の大石を買得申し高祖聖人の御命を継ギたてまつり候と仰セ給ヒ候。」
(日因『有師物語聴聞抄佳跡』、『富士宗学要集』1-185〜186ページ)

 
1467〜1472年の間、大石寺の記録では相承は継承されていたとしているのに、なぜか31世日因の記録では9世日有が3人の留守居を定め置いた6年間の間、大石寺が捨て置かれ「謗法の処」に成り果てたとされているのです。そもそも大石寺の土地そのものが既に他者に売りに出されていて、日有は金20貫で買い戻さなければならなかったと書かれています。しかも画像を見ればわかる通り、日因は明確に「日有上人の仰せに云く」と冒頭に記しています。
 
とすれば「戒壇本尊」はどうなったのでしょうか?
そもそも大石寺の土地が売りに出されていて「謗法の処」に成り果てていた状態で、大石寺は「戒壇本尊」を放置していたことになる筈です。それにもかかわらず、ここでは大石寺にとって最重要である筈の「戒壇本尊」のことが全く書かれていないのです。
日有が定めた留守居がたとえ隠居しても、10世日乗と11世日底が大石寺に住持していたなら、大石寺が売りに出されることも「謗法の処」になることもなかった筈です。ところが現実はそうではなく、事実大石寺は荒れ果て、留守居は逃げ出し、日乗と日底の素性も行動も何一つ記録に残されていないのです。そして何よりも大切である筈の「戒壇本尊」がどうなったのか、全く記録されていないのです。
 
ここから考えても、1472年当時まで大石寺には「戒壇本尊」なるものは存在しなかったと考える方が自然です。
つまり戒壇本尊の偽作は、恐らくは1472年以降、隠居した9世日有以降によってなされ、それ以前には戒壇本尊自体が大石寺に存在しなかったということになります。