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創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

大石寺を逃げ出した留守居。








いつもみなさん、ありがとうございます。



さて9世日有の頃の大石寺は、大変に貧窮していた状況が各文書から確認することができます。


例えば富士宗学要集の『有師物語聴聞抄佳跡』には次のような記録が残されています。


「末代大切なる子細にて候間此の沙汰を成ぜんが為メニ三人の留守居を定メて候えば如何様の思案候ひけるや、留守居此の寺を捨て除き候間六年まで謗法の処に成リ候間、老僧立帰り高祖聖人の御命を継ぎ奉り候、さ候間一度謗法の処と成り候間、又地頭奥津方より廿貫ニ此の大石を買得申し高祖聖人の御命を継ギたてまつり候と仰セ給ヒ候。」
(日因『有師物語聴聞抄佳跡』富士宗学要集1-185〜186ページ)


9世日有が大石寺を隠居した後、1467年〜1472年までの6年間、大石寺の継承が途絶えていたことがここからわかります。
日有が後事を任せていたはずの留守居大石寺から逃げ出し、わざわざ日有が戻って代官に差し押さえられていた土地を20貫で買い戻さなければならなかったほど大石寺は困窮していたということになります。


私は以前ブログで9世日有から少し後の継承について少し書いたことがありますが、1472年まで大石寺を継いだことになっているのは、10世日乗と11世日底の二人ですから、この二人が日有の言う「逃げ出した留守居」であり、大石寺を放棄して逃亡した可能性が充分にあると思います。


「9世日有から日乗、日底、日鎮への相承」


時系列を整理しますと、1467年(応仁元年)に9世日有は大石寺を「留守居」に任せて隠居します。その後、その留守居たち(10世日乗と11世日底か)は大石寺を放棄し、土地を売り飛ばして逃亡します。この1472年(文明4年)までの6年間、大石寺貫主不在の「謗法の寺」となってしまい、この時に老齢の日有(当時80歳)が急遽後継に定めた人物は14歳の少年僧・日鎮しかいなかったということです。
そしてその12世日鎮もまた後継を定める際、当時9歳の少年僧の良王(13世日院)に任せるしかなかったというのが大石寺の当時の史実かと思います。


大石寺13世日院のこと」



大石寺10世日乗と11世日底に関する伝記や史料については殆ど何も残っていません。日有の発言記録によるなら日有が隠居した応仁元年から6年間で大石寺の「留守居」が寺を売り飛ばして逃げ出したことが知られますから、可能性として史実は以下のどちらかであるかと思います。


仮説1
大石寺を売り飛ばして逃げ出した「留守居」のうち2名が10世日乗と11世日底であった。

仮説2
そもそも日有が隠居した後、特に相承はされておらず、逃げ出した留守居の期間、架空の人物として日乗と日底の名前が創出された。