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大石寺18世(17世)日精の『家中抄』日主伝の項目に以下のような記述が残されています。
「富士に帰りて院師の付属を受け住持十五年、其ノ比身延の僧円来坊、板本尊を盗み取んと欲して主師を傾く、茲に因て隠居して金井に到る、(中略)国替以後金井蓮行寺に蟄居す」
(日精『富士門家中見聞』富士宗学要集5-259ページ)
簡単に通解すると以下のようになります。
「日主は富士に帰って13世日院より血脈の付属を受け、15年の間、大石寺に住持した。この頃に身延の円来坊という僧が板本尊を盗み取ろうと日主に接触して心を傾けようとした。このため日主は隠居して栃木県下野の小金井に行くことになる。」
身延の僧侶の円来坊なる人物が、戒壇本尊を盗み出そうとして、なんと大石寺法主の日主に揺さぶりをかけていたことが記録に残されているのです。「茲に因て隠居して金井に到る」ということは、このことが原因となって日主は大石寺を追われて隠居の身になったということです。
ではこの後、日主はどうなったのでしょうか。
何と日主は最後まで大石寺に帰らず、元和3年(1617年)8月17日に亡くなります。
この時の相承の証拠が『富士宗学要集』8巻に記録されています(8-46〜47ページ)。
堀日亨氏はここで「主師は小金井蓮行寺に行きて病みたる時、要山より招かれたる日昌上人は文禄五年に其約を果して大石寺の後董となるべき血脈相承を小金井にて受けられたる時の証文にして主師状は総本山に昌師状は蓮行寺に在り何れも正本なり」と述べていまして、59世日亨もまた14世日主が最後まで大石寺に帰らず、栃木県に隠遁していた事実を認めています。
とすれば、なぜ日主は大石寺に帰れなくなってしまったのか?という疑問が湧いてきます。