いつもみなさん、ありがとうございます。
さて今回は大石寺9世日有が誰から血脈相承を受けたのかと言う点を考えてみたいと思います。
大石寺9世日有の前の法主は8世日影になります。日影は6世日時の弟子となり、会津の実成寺にいたのですが、この時、日時が亡くなります。この際「代官」として7世日阿が登座しますが、日影の晋山が遅れ、応永14年(1407年)3月に日阿は亡くなります。日阿は亡くなる前に在家の柚野浄蓮という人物に相承を預ける形をとったとされます。
「大石寺7世・日阿のこと」
なので、7世日阿と8世日影との間で、一時血脈は途絶えており、在家を介入して相承しているのですが、私が今回書きたいのは8世日影から9世日有に至る血脈のことです。
8世日影は応永26年(1419年)8月4日に亡くなります。現在の日蓮正宗の見解としてはこの1426年8月に相承されたとしています。Wikipediaで「日有」を検索すると、相承を受けたのは「応永26年8月」とあります。すると日有が日影から相承を受けたのは8月1日〜8月4日のわずか4日間のどれかになり、この時、日有はわずか17歳の若さで血脈相承を受けたことになります。
ところが、大石寺の諸記録から見ると、どうも8世日影から9世日有に直接の相承がされたことが確認できないのです。
まず大石寺18世日精の『家中抄』の日影伝の項から引用してみましょう。
「御公[日影]大衆に語ツて云く血脈を伝ふべき機なき是我カ悲嘆なり、終に応永廿六年己亥病気の時油野浄蓮に血脈を授ケて云く、下山三位日順は血脈を大妙に伝ふ其ノ例なきに非す、伝燈を絶えざらしめよと教示して、八月四日没したまふ。」
(日精『富士門家中見聞』富士宗学要集5-255ページ)
編者の堀日亨は注記でこの記述を「惑説」として批判していますが、ここで日精の見解としては「8世日影が血脈を伝えるべき者がおらず、油野(柚野)浄蓮に血脈を一時伝えた」としている点です。
つまり日精が正しいなら、8世日影に血脈を伝えたのも柚野浄蓮、9世日有に血脈を伝えたのも柚野浄蓮ということになります。在家の柚野浄蓮の功績は計り知れないことになります。
「大石寺遺弟日影判云云、応永廿六年己亥病中に及び血脈を伝うべき器なき故ニ柚野ノ浄蓮ニ血脈を授く、下山日順血脈を大妙に伝うるに例す、此則白衣なりと雖深信ノ故ニ之を授け御弟子日有をして御成人の時を待たしむるか、応永廿六己亥八月四日寂ス云云、今私ニ之を案するに初説ヲ実義となすべきか精師ノ記恐ハ時人の口伝を記するものか、後人能々之を尋ぬべき、但柚野浄蓮授与之板御本尊今岩城妙法寺に在り、紫宸殿御本尊ノ写なり、端書ニ云ク応永廿七年大伴浄蓮ニ之を授与す云云、」
31世日因が18世日精の説を述べていますが、ここで興味深いのは、9世日有からこの時に柚野浄蓮に贈られた板本尊が岩城妙法寺に存在するということです。日因の記述によると紫宸殿本尊の写の板本尊が柚野浄蓮に授与されたというのです。
そこで調べてみると確かにありました。『富士宗学要集』8巻の漫荼羅脇書の一覧にきちんと「九世日有上人御筆の分」として浄蓮への授与本尊が紹介されています。
「(客殿安置紫宸殿彫刻檜板本尊に加筆)大檀那大伴氏浄蓮、時に応永廿七年太才庚子卯月十五日、岩城妙法寺」
(富士宗学要集8-194ページ)
上記の論点を整理すると、以下のような推論ができます。
1、日有は日影から相承を受けることができず(日影の没年、日有は若干17歳)、日影は自身が相承を受けた柚野浄蓮に再び血脈を預け、応永26年(1419年)8月4日に亡くなる。
2、日有はその翌年の応永27年(1420年)4月(卯月)15日、柚野浄蓮に板本尊を授けているので、それまでに柚野浄蓮から血脈相承を受けた可能性がある。
3、日影が亡くなった1419年8月4日から、日有が柚野浄蓮に板本尊を授けた日付1420年4月15日まで血脈相承は柚野浄蓮のところに預けられており、少なくともその期間、大石寺の血脈は断絶していた可能性がある。
以上のような推論が成り立つかと思います。