気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

下山大工と日教のこと。





いつもみなさん、ありがとうございます。



今回は下山大工について少し書きたいと思います。




弘安5年(1282年)に日蓮が亡くなり、その後、身延の波木井実長(南部六郎実長)と日興との間に確執が起こり、日興はこの時に身延を去り、富士に向かいます。現在の富士宮市です。


この時、日興は下山の「石川」家という大工たちを伴って富士に行きます。
この大工たちは下山(現在の山梨県身延町下山)に住んでいた宮大工で、通称「下山大工」と呼ばれていました。
下山は、身延山久遠寺から数キロの場所にあり、彼らの中には身延山久遠寺の造営に携わった者たちも多くいました。また『下山御消息』という遺文からわかるように下山兵庫五郎等、日蓮の信徒が当時から存在したことが推察できます。



実はこの下山大工、石川家の子孫たちが現代も残っていまして、石川家の伝承によりますと、日興身延離山の際、南条時光に請われて富士郡上野郷(現在の富士宮市上条)にやって来た時に日興に従って大石寺諸堂宇の基となる「六壺」を造立したと言われています。
この伝承は石川家に口頭で伝えられ、『身延町誌』にも記録されています。また日興が下山の車大工のために授与した文保3年書写本尊が静岡妙善寺に現存していまして、下山大工たちと日興との関係がここからもわかります。以下の画像では左下授与書に「甲斐国下山車師尼」と書かれていまして、日興と下山の車大工たちとの関係がわかります。


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その後、下山大工・石川家は大石寺諸堂宇の整備に携わります。例えば大石寺の御影堂、三門等は下山大工たちによって作られています。



下山大工たちによる大石寺富士見庵の建立に際しては棟梁の佐野伝右衛門に大石寺51世の日英から書写本尊が贈られています。
個人的に知って驚いたことは、この下山大工から出家して大石寺法主になった人物までいることです。
その人物とは、大石寺32世日教です。
大石寺48世日量の『続家中抄』に記録が残されています。



「釈日教、字は文孔本久院と号す寛永元甲申年甲斐国一之宮に生る、工匠石川氏某の男なり、父を随本と云ひ母を妙本と云ふ、十二歳にして父に後れ養師に従て剃髪受教す、細草檀林に勤学し満講して第四十三代の能化となる、下谷常在寺に住し第八世なり、学頭十二代蓮蔵坊に移り祖書を講す。
四十七歳寛延三庚午年九月十一日進山の式を調ひ因師の付属を受け第三十二世なり、在位七年法を元師に付す宝暦六丙子年八月報恩坊に閑居す、享年五十四歳同七丁丑年八月十二日に寂を示す。
父随本甲州一ノ宮大工棟梁石川伊兵エ
正徳五乙未年十二月二十五日
母妙本宝暦二壬申年六月八日
当山尼部屋に於て死」
(日量『続家中抄』富士宗学要集5-283ページ)



日教の父母もまた大工から出家し、大石寺で亡くなっています。
下山地区の一角には大石寺日教の供養塔が現存していまして、また大石寺墓苑には下山石川家の墓所もあります。
このように歴史的に下山大工・石川家と大石寺は密接に繋がっていたことになります。