気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

大石寺、東西坊地の争い。

 

 

いつもみなさん、ありがとうございます。
 
さて今回は日道と日郷の間に起こった大石寺坊地の所有権問題について、誰でもわかるようにわかりやすく書いて紹介してみたいと思います。
 
多くの人がご存知のように、大石寺の坊地は東坊と西坊に分かれています。日興と日目の死はともに正慶2年(1333年)ですが、これをきっかけとして日仙と日代の間で方便品読不読の問答が起こります。問題はこれに止まらず、大石寺の東西の坊地をめぐり、所有権争いが起こったのです。
 
この遠因がどこにあるかというと、大石寺の寄進者でもある南条家の相続上の問題から、大石寺の東西坊地を東西に分割し、それぞれを別々に寄進させてしまったことにあるのです。
千葉県史料研究財団編『千葉県の歴史 資料編中世3(県内文書2)』(千葉県、平成13年)には保田妙本寺文書として、日郷の後継である日賢筆による『大石寺東坊地相続図』が収められています(同367ページ)が、ここに明確に東坊地と西坊地とが別々に南条家から寄進され、東坊地が日郷に寄進されたことが記録されています。

画像を見ればおわかりかと思いますが、明確に「以大石寺東坊敷地頭南条四郎左衛門尉時綱(日賢亡父)建武五年五月五日寄進于日郷」「寄進日郷也」「西坊敷者南条三郎左衛門跡日行相続地」と記録されています。

ここからわかるように、大石寺の東西の坊地が分割して寄進された時、西坊地を相続したのは大石寺4世日行でした。そして東坊地を相続したのは日郷だったのです。ところが、日郷は活動の中心を既に房州に移動していました。
やがて日郷が亡くなり、南条家が上野郷を退出すると、西坊地側の日行によって実質的に東坊地は占拠され、日郷の後継者である日賢との間に坊地争いが起こることになります。
 
貞治4年(1365年)に日行は地頭に「西坊地も東坊地もともに本主寄進の土地だ」と偽り、「去渡状」を出させることに成功します。この時の状は堀日亨編『富士宗学要集』第9巻に収録されています(同38〜39ページ)。

画像を見てお分かりのように「本主寄進の如く御堂並に西東坊中共に卿阿闍梨日行に去り渡す所なり」と書かれています。
妙本寺側の日賢はこれに対して南条時綱の『寄進状』等を示してこれが不当であることを訴えます。この時の『南条時綱寄進状』は同じく『富士宗学要集』9巻に収められています(同37ページ)。

 
この『寄進状』には南条四郎時綱の判が記され、明確に次のように書かれています。
 
「おほ(大)いし(石)でら(寺)のひがし(東)かた(方)は、一ゑん(円)にさい(宰)しやう(相)のあ(阿)じゃ(闍)り(梨)の御ぼう(房)の御はからひ(謀)として、まつたく(全)とき(時)つな(綱)がし(子)そん(孫)さまたげ(妨)申べからず、もしこの(此)いましめ(誡)をそむ(背)かんし(子)そん(孫)は、ふ(不)けう(孝)のじん(仁)たるべく候、のち(後)のために、じやう(状)くだん(件)のごとし(如)。
りや(暦)をう(応)二ねん(年)二月十五日   時綱あり判」
(『南条時綱寄進状』『富士宗学要集』9-37ページ)
 
ここからもわかるように、大石寺の東方は明確に「宰相阿闍梨」(日郷)に寄進されています。
この働きかけにより、翌年に東坊地は日賢に一端は返還されます。しかし日行の死後にこの係争は大石寺6世日時に引き継がれ、応永12年(1405年)に東坊地は最終的に大石寺側に引き渡されてしまいます。
日時の代になり、妙本寺側にいた日賢等の東坊地の所有権を主張するものは大石寺からの退出を余儀なくされ、その活動の多くは房州になっていました。その結果として大石寺西坊地側の不当な東坊地の横領行為が成功したことになります。
 
 
参考文献
千葉県史料研究財団編『千葉県の歴史 資料編中世3(県内文書2)』千葉県、2001年
日亨編『富士宗学要集』第9巻、史料類聚[2]、聖教新聞社、1978年
金原明彦『日蓮と本尊伝承』水声社、2007年