いつもみなさん、ありがとうございます。
以前にも書いたことなのですが、日目からの相伝は日道に伝わったのか、それとも日郷に伝わったのか、という点に関して文書の画像を紹介したいと思います。
読むとわかりますが、ここで日目から日道に譲られているのは田畑を含む土地です。最後に一度花押を書いた後、日目は追記の形で「上ノ新田坊地」を「譲与する」ことが書かれ、また「上新田講所たるべし」として、日道にその土地の講師になることが示唆されています。
しかしながら血脈や相承等はここには全く書かれていません。
日蓮正宗は公式に日目から日道への相承を正慶2年(1333年)10月としていますが、これは日目が京都に天奏に行く直前であり、日目の死の1ヶ月前です。日付も明らかになっていませんし、それを示す文献も存在していません。
また同年の日道の著とされる『三師御伝土代』の末尾は「日目上人御伝土代」になりますが、ここにも日目から日道自身への相承があったことは全く記されていません。末尾は道智坊と日目との間の問答が記されて終わりとなり、その後の日目の事績は記録されていないのです(同277ページ)。
では日目から日郷への相承はあったのでしょうか。
日目から日郷への書状は『與宰相阿闍梨御坊書』として3通あることが『日蓮正宗歴代法主全書』で確認できます(「宰相阿闍梨」とは日郷の阿闍梨号です)。全て保田妙本寺に正本が現存します。このうち1つをここで紹介してみます(同228ページ)。
読んでおわかりかと思いますが、日郷の安房吉浜への布教の重要性を日目が認識していたことになります。そして末文で日目は「法命を継ぐ可く候」とまで書いているのです。
そして京都要法寺日辰『祖師伝』によるなら、大石寺の日目日道相伝説に対して、日郷創建の小泉久遠寺側から異論が出され、日目から日道への付属はなかったと反論されています(堀日亨編『富士宗学要集』5-34ページ)。
読んでおわかりのように「是ノ故に大石寺は日目日道に付属せず日道付属の状之レ無し」とまで書いています。
そもそも私は日蓮日興の思想に「遺弟一人」という考え方は存在せず、日蓮の「六老僧」また日興の「本六」「新六」のように複数の弟子を取るシステムであったと考えています。なのでここで殊更に日目から日郷への相伝があったように主張するものではありません。
しかしながらこうして文献を一つ一つ見ていけば、日目から日道への唯一の相伝があった可能性は低いと言わざるを得ないと思います。