いつもみなさん、ありがとうございます。
さて
日蓮はかつて
真言を「法華
真言」としており、法華と
真言を同格と捉えていました。
ここからもわかるように、
日蓮が
真言批判に傾斜するのは概ね
佐渡以降のことであり、
佐渡以前は念仏批判を中心としていました。事実『
立正安国論』にも「法華
真言」の用例は見られます。
ただ
日蓮は後に
真言を批判するようになるのですが、その批判には現代の
歴史学的視点から見て首を傾げてしまうような邪推が見られることも事実です。
例えば『聖密房御書』(建治3年、真蹟身延曽存)の次のような一文です。
「真言宗の名は天竺にありや・否や大なる不審なるべし、但真言経にてありけるを善無畏等の宗の名を漢土にして付けたりけるか・よくよくしるべし」
日蓮はここで善無畏が中国で勝手に
真言宗という名をつけたのではないかと述べていますが、そんな事実は存在しません。単なる邪推です。
また『寺泊御書』(文永8年、真蹟中山蔵)には次のようにも書かれています。
「又天竺の法華経には印・真言有れども訳者之を略して羅什は妙法経と名づけ、印・真言を加えて善無畏は大日経と名づくるか」
日蓮はここで「インドの
法華経に印と
真言があったけれど
鳩摩羅什はこれを略して
法華経とし、善無畏はこれらを加えて
大日経を作ったのではないか」と述べていますが、そんな事実は全くありません。邪推どころか、もはや作り話のレベルです。
また
金沢文庫には『理性院血脈』という文書が存在し、この中に
日蓮が
大日如来から数えて25代目の血脈を相承していることが記録されています。この文書によるなら
日蓮は
真言宗醍醐寺理性院の血脈を受けていたことになり、
日蓮という人物が早くから
真言を摂取していたことが推察できます。
また
保田妙本寺には『不動愛染感見記』の
日蓮真蹟が現存しており、
日蓮が自身の筆で「
大日如来から23代目の血脈を受けた」ことが記録されています。
日蓮の
真言に対する態度は、やや屈折していまして、
真言を摂取してその影響を受けつつも、国家調伏の祈祷は
法華経に限るとして後年に
真言を批判するように、やや
アンビバレントなものだと言えるでしょう。