気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

日精は大石寺17世ではなく18世である。



いつもみなさん、ありがとうございます。



さて今回は大石寺の15世日昌から19世日舜までの血脈相承の繋がりを見ていきたいと思います。私はこのブログで大石寺「17世」とされる日精をある時期から一貫して「18世」としています。その根拠も示してみたいと思います。
まず大石寺16世日就から19世日舜の生没年と法主在位期間を日蓮正宗の見解から記してみます。

16世日就[にちじゅ](1567〜1632)
在位1607〜1632

17世日盈[にちえい](1594〜1638)

在位1633〜1637

18世日精(1600〜1683)
在位第1期1632〜1633
在位第2期1637〜1645

19世日舜(1610〜1670)
在位1645〜1652


ここから詳しく見ていきましょう。
まず以前ブログでも書いたことですが、15世日昌は元和8年(1622)4月7日に亡くなります。ところが、次の法主になる日就の晋山が遅れ、4月23日に大石寺に到着します。つまり日昌の死後です。
直接相承を受けられなかった日就は、その間を引き継いでいた理境坊日義から血脈相承を受けることとなります。したがってここで一度血脈は断絶しています。
日精はこのことを記録に残しており「元和年中昌公終焉の後、同四月廿三日入院し理境坊日義に随ひ相承を継く」(富士宗学要集5-260ページ)と書いています。きちんと「昌公終焉の後」と書いてあるんですね。


次に日精がもしも「17世」だとするなら、日精は16世の日就から相承を継いでいないといけません。実際はどう記録されているか見てみましょう。

寛永九年十一月江戸法詔寺に下向し直授相承を以て予に授け同十年癸酉二月廿一日没したまふ行年六十六歳なり。」
(日精『富士門家中見聞』富士宗学要集5-260〜261ページ)


先程の引用のすぐ後の部分です。ここで日精は自己申告ですが、日就から寛永9年(1632)11月に相承を受け、その翌年寛永10年(1633)2月21日に日就が亡くなったと記録しています。

さてここで史的な不整合が生じます。実は日就が亡くなったのは寛永9年(1632)2月21日であり、寛永10年(1633)ではありません。実際大石寺48世日量の『富士大石寺明細誌』でも日就の没年は寛永9年(1632)としています(同5-343ページ)。これが事実なら日精は日就の死人か幽霊から相承を受けたことになります。


つまり日就から日精に相承があったとする客観的な資料が存在せず、日精が相承を受けたとする自己申告の日付も日就の死後になっているのです。ですから上記の『富士大石寺明細誌』でも日精は「十八代」とされています。画像を見て確認ください。

そして現在の大石寺で「18世」とされる日盈は日精から相承を受けていません。実は日盈もまた理境坊日義から取り継ぎ相承を受けていて、そのことを記した日盈と日精の記録が大石寺に現存するのです。

此の御消息は大石寺一院理境坊式部阿闍梨日義、寛永癸酉年九月十九日亥の刻病に臥して之を予に授けられ畢んぬ、日盈在り判

寺僧檀那孰れも見畢んぬ。
同月廿一日巳の刻遷化、当三代の間劫行不退殊に血脈相承等を預かつて相伝せらるるの条、他人に異るに依つて上人を贈り畢んぬ。

理境坊日義贈上人、日盈付属の御消息一幅御奉納の間筆を染むる者なり。
寛永十三年)子の十月十四日  日精在り判。
日盈御消息一幅を以って日精預かり候なり、仍て件の如し。月日前に同じ。」
(『日盈記文』富士宗学要集8-50ページ)



ということで、実際の法主の在位は16世が日就、17世が日盈であり、相承の順番はこの時は「15世日昌→16世日就→17世日盈」なのではなく「15世日昌→理境坊日義→16世日就」となり「理境坊日義→17世日盈」となっていたことになります。そして日精本人は自身では寛永9年(1632)11月に16世日就から相承を受けたと書いているのですが、実際には寛永9年2月21日に日就は既に亡くなっており、日精が相承を受けたという客観的な記録が存在しないのです。

更に加えて日精本人は自身が大石寺の「18世」だと考えていました。それは『当家甚深之相承之事』です。この写本は大石寺に現存します(日蓮正宗歴代法主全書2-314ページ)。


きちんと日精本人が自身を「本山十八祖」と書いています。したがって大石寺の本来の18世は日精であり、17世が日盈ということになります。
大石寺法主当座の順番を改竄して日精を「17世」とすることに、大石寺側の何の狙いがあるのかは定かではありません。ただ日精本人が既に書いて残しているように日精は17世ではなくやはり18世であると思います。