いつもみなさん、ありがとうございます。
少し前の記事では、そもそも大石寺における仏像建立は敬台院の意向によるもので、日精はこの要法寺流の化儀(元来、敬台院は要法寺の信徒でした)について『随宜論』を著わしてこれを擁護する姿勢さえ取っていたことを書きました。
「仏像建立は敬台院の意向。」
その関係に変化が生じるのは、寛永17年〜18年頃(1641年〜1642年)のことで、この辺のことは以下の記事に以前書いています。
「敬台院と日精のこと。」
敬台院は日精について、激しい嫌悪感を抱き、書状の中でかなり強い口調で非難しています。少し引用してみましょう。
「弥々悪魔外道の魔王(日精のこと)を仏の御計らひにてことごとく打ちはらひ、是先ゑは内外とも一筋に信心を励まし道心も深く成り申し候様にとをもひ候て、我等持仏堂には開山様の漫荼羅をかけ置申し候、此(日精筆)漫荼羅は見申す度に悪心も増し候まま衆中の内に帰し申し候」
(『敬台院日詔状』富士宗学要集8-58ページ)
敬台院は日精のことを「悪魔外道の魔王」とまで罵り、日精の書いた曼荼羅本尊に関して「見るたびに悪心が増す」として返却することさえしています。
ではなぜ、かつては関係が良好だった筈の両者が、ここまで罵り合うほどの関係になってしまったのでしょう。
私も実際のところは分かりませんが、諸史料を読んでいくうちに、一つの仮説が浮かんできました。
その日精独自の教義として、2点を挙げたいと思います。
1、御影堂は本門戒壇本堂と定義
2、金口一人の相承の強調
御影堂を「本門戒旦本堂」と呼称したのは確かに日精であり、『御影堂棟札』にもきちんとこのことは書かれています。
「御影堂は『本門戒旦本堂』?」
また先述したように、敬台院の仏像建立を『随宜論』で容認した日精は、大石寺堂内には仏像は建立しておらず、このことは堀日亨も富士宗学要集9巻で「周囲の制止か本人の良心か」としています。実際のところ、日精がいた頃の大石寺には仏像建立の様子が全く見られないのです。
加えて日精は『家中抄』を著わし、大石寺歴代の「金口一人」の相承を強調した、かつての中興の祖だったという史実です。
「当家甚深之相承之事。全余仁一言半句申聞く事之無く、唯貫主一人之外者知る能わざる也。
仍染筆者也。(中略)又本尊相伝唯授一人之相承故代々一人之外書写之無し。」
「況や又上洛の刻には法を日道に付属す所謂形名種脱の相承、判摂名字の相承等なり、惣じて之を謂はば内用外用金口の知識なり、別して之を論ぜば十二箇条の法門あり甚深の血脈なり其の器に非ずんば伝へず、此くの如き当家大事の法門既に日道に付属す、爰に知りぬ大石寺を日道に付属することを、後来の衆徒疑滞を残す莫れ云云。」
(日精『富士門家中見聞』富士宗学要集5-216ページ)
さて、ここからはネット等の情報由来で、未検証のことも多いのですが、あえて参考のために紹介したいと思います。
これは富士宗学要集にも歴代法主全書にも掲載されていないようなのですが、沼津市明治史料館が2000年に発行した『愛鷹山中の謎の遺跡 山居院 -史実が伝説になる時-』に収録され、史料として紹介されていることがわかりました。史跡調査によればこの文書は1770年頃のもので、原資は「大石寺文書」とされています。
この中で日隠が書いている部分を紹介してみたいと思います。
「此外に三鳥宗門といえるあり、此宗門は内證事にて表立たざる邪法なり(中略)
日秀沼田談林にて能化を勤め、三鳥院と云ふ。かくて談林万事相すみ一時に改宗して大石寺に帰入す。兼て精師も其約束也。
尓るに精師大石寺現住の折から三鳥院を歴代にもなすべきかと思召あれども盈師も得心し玉はず、又役者も檀頭も合点せず叶はず重なり、故に能化浪人にて住居に難儀し、江戸へ出て借宅して己情の邪義を弘通して大石寺の一大事の金口は日精より我相伝せりなり云て妄語を構へ日蓮の名字を汚せり」
(「日隠書」『山居院』所収、23〜24ページ、沼津市明治史料館、2000年)
この「日隠書」が仮に正文書だとすると、ここからわかることは、以下のようなことです。
1、三鳥宗門は内緒の事であり、邪義である。
2、日秀という人物は沼田談林で能化を勤め、大石寺に改宗してきた。
3、日精とは事前に約束があった。
5、住むところに困った日秀は江戸へ出て自身の教えを広めた。
6、日秀は日精から「金口」の相伝を受けたと言った。
要法寺流の教義を信じていた敬台院と異なり、日精は大石寺の「金口一人」の血脈を強調するところが強くありました。それにより、敬台院によって興隆したことで、敬台院の発言力が強まっていた大石寺を、教義的な独自性を強調することで、奪い返そうとした様子が見られます。だからこそ敬台院は日精のことを「悪魔外道の魔王」とまで呼び、大石寺から追い払ってしまったのではないか、今の私はそう考えています。