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創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

大石寺の本堂と御影堂の史料的検討。



いつもみなさん、ありがとうございます。


さて前回の記事では「御影堂」が当初は北山本門寺に建立され、大石寺に日興在世中、上古の時代に御影堂は存在しなかったことを書きました。今回はその続きです。


前回の記事で確認したように、大石寺9世日有の『新池抄聞書』では大石寺が「本尊堂」であり、重須が「御影堂」であると述べられています。

ここから、大石寺9世日有(1402〜1482)の時代にはまだ大石寺には「御影堂」が存在していなかったため、北山本門寺の「御影堂」に対抗して「本尊堂」がある故に大石寺が優れていることを日有が主張していたことが推察できるかと思います。


大石寺に御影堂が建立されたのはいつでしょうか。具体的に建立されたと言われるのは寛永9年(1632年)、大石寺18世日精の時です。その前に御影堂が建立されたという史料的記録を探すと、大石寺14世日主(1555〜1617)の『大石寺図絵』(年月未詳)がありました(『日蓮正宗歴代法主全書』第1巻口絵及び468ページ)。


ここを見ると、確かに一番奥に「本堂」が存在し、その左に「御影堂」と書かれていることがわかります。9世日有の後、14世日主の代になって「本堂」と「御影堂」が大石寺境内に存在した記録が現れることになります。

ところが、不思議なことがあります。
同様の大石寺境内の図を実は17世日盈(1594〜1638)が再び書いて残しているのですが、ここには「大堂」と書かれ、本堂左に存在した筈の「御影堂」が消えているのです(『日蓮正宗歴代法主全書』第2巻326ページ)。


これはどういうことか。堀日亨は「12世日鎮の代に焼失した可能性」について指摘しているのですが、そもそも日鎮(1469〜1527)は12世ですから14世日主より前の時代になります。12世日鎮の代に焼失したものを14世日主が図に描いて残す筈がありません。

この疑問は長らく私の中にあったのですが、大石寺48世日量(1771〜1851)の『富士大石寺明細誌』を読んで氷解しました。以下に画像を載せます(『富士宗学要集』5-322ページ)。


ここで最初に「本堂」と書かれていまして、本堂に納められたものとして「板漫荼羅」、そして「日蓮聖人木像」と書かれています。しかもここで日量は「御影堂」という建物について全く記していないのです。
つまり御影堂は本堂と別に作られたのではなく、大石寺の「本堂」の「中」に御影を祀る堂が存在していたということになります。
そうすると最初に引用した、大石寺14世日主の描いた『大石寺図絵』で「本堂」と「御影堂」と「天経」が隔てなく描かれていることの理由がわかります。つまりもともと9世日有以降、大石寺に建立されたものは「本堂」「本尊堂」であり、14世日主の代に至って本尊堂の中に御影を安置したということです。それなら17世日盈がわざわざ「大堂」とだけ記して「御影堂」を別に描いてない理由がよくわかります。
ここからも大石寺には寛永9年(1632年)に至るまで、独自の建物として「御影堂」が大石寺には存在しなかったことが推察できるかと思います。