気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

相承の断絶。




いつもみなさん、ありがとうございます。



さてこのブログでは、大石寺法主に伝わる血脈相承が少なくとも複数回にわたって、断絶している可能性を記事で書いています。
今回それを簡単にまとめてみましょう。



1、3祖日目から4世日道への付属の状が存在していない。


2、6世日時の死後、代官として7世日阿が登座し、8世日影に相承しようとするも日阿急逝のため、在家の柚野(油野)浄蓮に相承が一時的に預けられている。


3、9世日有から10世日乗への相承後、3年後に日乗は死去。その後の11世日底も2年後に亡くなる。日有がその後再登座し、80歳の時に当時わずか13歳だった12世日鎮に相承をした。


4、12世日鎮は、当時わずか9歳の良王(後の13世日院)に付弟状を書いているが、18世日精『家中抄』によるなら、日院は13歳になって初めて大石寺に晋山したので、3年以上大石寺には法主が不在だったことになる。


5、15世日昌の死後、16世日就の晋山が遅れ、一時的に相承を理境坊日義が預かり、それを日就に付属した。また17世日盈に相承したのも理境坊日義である。


6、16世日就から18世日精に相承がされたという客観的な物証が存在しない。


7、敬台院により追放された日精に代わり、19世日舜が推挙されるが、正保2年10月27日まで日舜は相承を受けてはおらず、法主不在の空白期間が存在する。



と言う感じになろうかと思います。
まあそれ以外にも、近年ですと、66世細井日達と67世阿部日顕との間で相承が断絶したとの疑惑があり、これにより「正信覚醒運動」いわゆる正信会問題が起こったことは当時の信徒の方ならよくご存知のことかと思います。



大石寺が「法燈連綿」と自称している血脈相承の実態を史料から眺めてみれば、それがどれだけの客観的な史的妥当性を有しているか、多くの方が疑問を抱くのも当然かと思います。