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さて大石寺の血脈が7世の日阿と8世日影との間で、一度途切れていることは、このブログでも以前に書きました。
「大石寺7世・日阿のこと」
典型的な例が上述の日阿ですが、今回は大石寺13世日院について、取り上げてみましょう。
日鎮は亡くなる前年の大永6年(1526年)に『付弟状』を著し、当時9歳の良王(日院の幼名)に大石寺を任せる趣旨の文を書いています。
「良王殿の事幼少の御方に御座候、然りと雖も信心御志候て勢仁(成人)致され候はば当時の世間仏法とも御渡し本末の僧俗ども仰ぎ申さるべく候、仍て後日の為め件の如し
大永六年九月五日 日鎮」
ここからもわかるように、日鎮は後継の良王(日院)が「幼少」であることを認めています。確かにその通りで、日院は永正15年(1518年)の生まれですから、大永6年(1526年)に付嘱をされたと考えれば、数え年でわずか9歳の子どもに過ぎません。
そして不思議なのは大石寺17世日精の『家中抄』における日院伝の次の記述です。
「釈の日院(中略)、出家して右京と号す、十三歳にて富士に登り、当家を習学す」
(日精『富士門家中見聞』富士宗学要集5-258ページ)