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創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

妙本寺文書から見る、日目から日郷への相伝の事実。

 
 
 
いつもみなさん、ありがとうございます。
 
 
 
 
さて今回、「X」(旧「Twitter」)でも書いたことなのですが、ひょんなことから、保田妙本寺文書を閲覧する機会を得ました。
出典は財団法人千葉県史料研究財団編『千葉県の歴史 資料編中世3(県内文書2)』(千葉県、平成13年)です。
 
これを読むと日目からの相承が日郷に伝わっており、決して大石寺が主張するように「日目から日道への唯授一人の相承」とは考えられないのです。
 
 
1、『日郷置文』
 
まず文和2年(1353年)の『日郷置文』です。以下の画像は同書361ページからのものです。

安房国北郡吉浜村内中谷奉籠置御影員数事
日蓮聖人御影一鋪
一日興上人御影一鋪
一日目上人御影一鋪
右、三鋪御影、法蔵所奉籠也、師資相承之族、代々授学之輩、無緩怠之義可令守護申、若存猛悪之義、若成偸盗之思者、配中一門之列、可留衆中之交之状如件、
文和三年癸巳卯月八日    日郷(花押)」
(同361ページ)
 
この文書は日郷の逝去の年(1353年)に書かれたものです。日郷本人が日蓮から日目までの三師の御影を作り、それを「師資相承」とまで呼び、代々授学の者たちに守護するように申しつけています。
 
他にも同様な置文が複数、日郷の真蹟で保田妙本寺に現存しています。
 
安房国北郡吉浜村内中谷奉籠置御影員数事
(欠損)日蓮聖人自筆本尊一鋪文永十一年甲戌十二月日
日蓮聖人御所釈等
一天台六十巻一部
右、法蔵所奉籠也、師資相承之族、代々授学之輩、無緩怠之義可令守護申、若存猛悪之義、若成偸盗之思者、配(排)中一門之列、可留(止)衆中之交之状如件、
文和三年癸巳卯月八日    日郷(花押)」
(同159ページ)

 
というように、どこから見ても、日郷は日目からの正統な後継であるように振舞っているのです。上記の『置文』で書かれている「日蓮聖人自筆本尊」とは保田妙本寺に伝わる「万年救護本尊」のことです。
 
 
2、保田妙本寺に伝わる妙本寺の血脈次第
 
次に妙本寺文書として伝わる相承の系譜の次第です。見れば見るほど、明確に日目からの相承を「日郷」として記録に残されているものばかりです。ご自身の目でご確認下さい。
 
『富士山日目流久遠寺・妙本寺之惣血脈次第』(同272ページ)

 
『妙本寺・久遠寺代々付法次第』(同276ページ)

 
どうでしょうか。妙本寺で日目から日郷に相伝があったことを否定するような言説は全く存在しません。
 
 
3、日目の書状
 
日目の正文書として妙本寺には『書状』がいくつも伝わっています。その中の一つを挙げてみます。
 
委細承海路之間無殊事云々。抑安房国者聖人御生国其上二親御墓候之間、我身も有度候へとも老体之間無其義候処、御辺居住候へは喜悦無極候。相構相構法門強可被立候。国人皆以聖人之御法門廃候由聞候。可被継法命候。恐々謹言。
五月二日
日目花押
進上      宰相阿闍梨御房」
(同461ページ)

 
この書状に関しては、『日蓮正宗歴代法主全書』にも収録されています(1-228ページ)。またブログでも以前に紹介したことがあります。
 
「日目の「法命を継ぐ」日郷」
 
 
ここで日目は日郷に対して「安房国日蓮聖人の御生国」であり、安房国布教の重要性を考えていたことを文から読み取ることができます。ここで日目は「自分が老体」故に日郷が安房布教に行くことを「喜悦無極」とまで述べています。
そして日目は書状の最後に「国の人々が日蓮聖人の法門を捨て去った話が聞こえてくる」「法命を継ぐべきだ」と日郷に言い残しているのです。つまり日目の「法命」を継いで安房国布教に相応の使命感を持って旅立ったのは日郷であったことになります。
また同書『千葉県の歴史』の注記によれば(上述の画像参照)、編者はこの書状の書かれた年を「嘉暦元年」(1326年)と推定しています。日目の没年は1333年ですから、そうなると、既に亡くなる7年前に「法命」は後継されていたことになります。
 
 
 
また、今後も同書をよく読んでみて、興味深い史実等を紹介してみたいと思います。