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さて今回は四条金吾についてです。
四条金吾は正しくは「四条中務三郎左衛門尉頼基」と言い、日蓮の門下として知られます。武術に優れ、医術にも秀でていた彼は建長8年(1256年)、池上宗仲・宗長、工藤吉隆らと前後して日蓮に帰依したようです。
弘安5年(1282年)の日蓮入滅の際にも四条金吾は日蓮の最後の看病に当たったようで、事実、日蓮の葬列にも参加しています。以下の画像は日興の『宗祖御遷化次第』です(『日蓮正宗歴代法主全書』1-82ページ)が、四条金吾が「先火」「次火」の後の左右の「次幡」に連なっているのがわかるかと思います。
四条金吾は建治3年(1277年)、自邸内に「持仏堂」を建立しますが、日蓮の死後の弘安8年(1288年)に自邸を改めて寺とします。当初は「四条山正住坊」と称しましたが、後に移転を繰り返し、現在は日蓮宗寺院の「内船寺」として知られています。
また身延山の最古の宿坊である「端場坊」は、元々は弘安3年(1280年)に四条金吾が日蓮の近くで給仕をするために建てられたものです。端場坊は今では日蓮宗の寺院として知られています。四条金吾が富士の日興の元を晩年に訪ねてきた記録は存在しません。
大石寺4世・日道の『三師御伝土代』には六老僧のうち、日朗が富士の日興の元を訪ね、和解して日興を称賛したことが記録されています。しかしながら四条金吾が富士に来た記録は少なくとも私は見たことがありません。内船寺も端場坊もともに現在は日蓮宗の寺院であり、日興との関係は特段記録されていないのです。
とするなら、四条金吾は日興とは分かれた門流の者たちです。大石寺は五老僧を批判し、創価学会は退会者たちを批判していますから、同様に日興とは決裂して別の道を歩んで日蓮宗門流を構成する四条金吾は否定されるべきなのではないでしょうか。
「貞永昌靖とジョセフ・アソマニ」