いつもみなさん、ありがとうございます。
さて今回は『十宗判名の事』という遺文について書いてみたいと思います。
創価学会版(堀日亨編)御書全集では692ページに掲載されていますので、画像をあげてみます。なおこの真蹟については、大石寺にかつて真蹟が現存していたことがわかっていますが、現在は「紛失したようである」とされています。(参考:小林正博『日蓮大聖人の「御書」を読む、上、法門編』214ページ及び308ページ、第三文明社、1996年)
画像を見るとわかるように、各宗の教義の特徴を、日蓮自身がわかりやすい呼び名に変えて表したものです。法華宗なら「仏立宗」で、真言宗なら「咎范宗」(きゅうはんしゅう)と呼び、それぞれの宗派をどのように日蓮が考えていたのかがわかります。
ところで、この『十宗判名の事』ですが、大石寺18世である了玄日精が『家中抄』で、日興日目から日道への「相伝」の一つとして紹介しています。以下に画像をあげますが、日精はこれに関して「又大聖人並に日興、日目次第相伝の十宗判名を日道に付属し給ふ」(富士宗学要集5-212ページ)とまで述べているのです。
また日興日目から大石寺4世日道への「相伝」として伝えられるものなのであれば、なぜそれが紛失してしまったのでしょう。少なくとも堀日亨版の御書全集の目次では「正筆所在」に「富士大石寺」と書かれていますので、少なくとも堀日亨版御書全集発刊時の1952年までは、富士大石寺に同御書の日蓮真蹟が現存していたことがわかります。
大石寺の「相伝」として日蓮真蹟が伝えられてきた『十宗判名の事』が、なぜか忘れ去られ、信徒にも教えられず、御虫払い法要でも披露されず、気づいたら紛失していて、しかもほとんど大石寺法華講信徒も創価学会信徒も知らないとするなら、大石寺歴代法主が伝えてきた「相伝」とはいかなるものなのか、そもそも大石寺は「相伝」を正しく伝える気があるのか、そのような疑念が出ても致し方ない気がします。