気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

正しさは相対的なもの。




いつもみなさん、ありがとうございます。
多くの読者の方からアクセスをいただいて、本当に毎日感謝しています。



私はこんなブログを日々書いていますが、書く度に感じるのは、自身の才能の無さです。
私は教学的なことを多くブログで書きますが、いろんな文献を読んでわかったことをわかりやすく書くことくらいしかできません。
そもそも古文書の解読もできない、日蓮真蹟の解読もできない、真蹟の写真を見ても「この字は何だ? ああ、それか」と判読するまでえらい時間がかかります。お恥ずかしい限りですが、それが自分の力なので仕方ないことです。



ただ思うのは、

「先行研究を読むこと」
「自分の頭で考えること」
「自分の手で検証すること」
「自分で調べること」
「自分の過去の誤りを認めること」

という基本原則みたいなものです。



創価学会やら大石寺信徒やら、そういう活動家の世界に長くいると、自分たちの信じる「正義」みたいなものを否定できなくなります。
自分たちが歩んできた人生の否定になってしまうからです。
だけれどもそれをすること、今までの人生の正しさを全ていっぺんかっこに入れて、自己否定も辞さずに事実を知り、それを認めること、受け入れることこそが私には大切なことだと思います。
いつまでも池田大作氏の正しさをどこかで担保したいと思ったり、曼荼羅本尊とか大石寺戒壇本尊とかが正しいと思ったりとか、自身の過去の体験を否定できずに信仰にすがりつくとか、そういったものは全て捨てることです。
それができない人があちこちの大石寺系教団を右往左往してみたり、別のカルト宗教にハマったり、いつまでも自説に固執したりするのです。



私は日蓮の信仰が一時期まで正しいと思っていました。また法華経が正しいとも思っていました。
けれどそれらの正しさというものは、所詮作られた権威としての正しさでしかないことに気付きました。
私は別に日蓮宗等で日蓮を未だに信じる人を蔑視しているのではありません。そうではなく、大石寺系教団にありがちな「自説のみが正しく、それを否定する者は間違いだ」とする、原理主義的な態度を問題視しているだけなのです。



正しさというものは相対的なものであって、絶対的な概念ではありません。
だからこそ、自身で真摯に考えて、自身の愚かさを認め、自説の正しさを絶対視してはならないと考えています。
どこまで行っても正しい教団などありませんし、どこに行っても日蓮の正統もありません。
法華経が釈迦の正統の教えでもありませんし、漢訳仏典等の北伝仏教が釈迦の正統であるとする考えも間違いです。



大石寺系教団、そして創価学会の信徒は、退会者や転向者を侮蔑して憚らない傾向があります。
彼らの多くは「組織から離れたから仏罰が出た」とか「本山を批判したから病気になるのだ」とか、やたら現証面で脅すような非難中傷を無自覚に行います。
私はそのような宗教に二度と関わりたくありません。退会者、未活・非活の転向者をあからさまに侮蔑して吐き捨てるように非難できる彼らの人間性には強い嫌悪感を感じます。
私はそういう人間になりたくありません。



創価学会を退会して、大石寺信仰からも離れて、私は本当に心が自由になりました。
時間を自由に使えるようになりました。月曜日の夜に協議会に行くこともありません。書籍を買うこともありません。地区や支部に選挙支援数の報告もしなくて構いません。こんなに自由な時間が私にあったことに、私は非活になってから初めて気付きました。
財務なんてしなくていいです。貯金もできるようになりましたし、仕事にかけられる時間も増えました。
これらの全ては、創価学会との繋がり、日蓮正宗との繋がり、大石寺系教団との繋がりを全て断ち切ったことによって得られた自由です。



私は功徳も罰も信じません。そんなものは必要ありません。
私は成仏したいと思いません。そんなものは必要ありません。
戒壇本尊の権威など要りません。白糸の滝を見て富士宮焼きそばを食べたいとは思いますが、わざわざ大石寺に行く理由はありません。
まして信濃町などもはや行くことはありません。私は教団に必要とされていませんし、私も教団を必要としていないのですから。