気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

個人の声としてのブログ。




いつもみなさん、ありがとうございます。



私はこんなブログを書いていますが、別段宗教組織を作ったり、独自のグループを立ち上げることを考えてはいません。
このブログは、あくまで私の個人の信仰の総括の場であり、私的な告白に近いところです。




私は大石寺なり、創価学会なり、大石寺系の教団が衰退していくのは、もはや既定路線だと思っています。
創価学会の活動家たちはそんなことを聞くと必死になって否定したがるのかもしれませんが、もはや地方の青年部の衰退は目を覆うような惨状を呈しています。
青年層と未来部の激減は、そのまま組織の衰退に直結します。
私のこんな個人的ブログと関係なく、もはや創価学会の組織の瓦解、自己崩壊は回避し得ないのです。単に時間の問題であるだけです。
そんな状況にある組織を、現在の献身的な活動家たちが必死に活動し、"延命"させているだけのことなのです。



日蓮正宗」などとよくわからない宗派を明治以降から自称している大石寺は、創価学会組織への離間工作ばかりしている同族嫌悪の矛盾に気づいたのか、最近は駅前でビラを配ったりする姿が目につきます。しかしながらあんなチラシ類を駅前で配って誰が今さら大石寺信仰に入るというのでしょう。冷ややかな目で見られて避けられているのに、そのことに気づかないのは当の大石寺法華講信徒さんだけでしょう。
戒壇本尊も後世の偽作、自山の史料は殆ど未公開、御肉牙という怪しい代物、歴代法主全書は非売品、みんな秘密主義で、それでいて自分たちの山だけが日蓮の正統であると信じて吹聴している姿は、傍から見て滑稽でさえあります。



私がこのブログで述べていることは、かつての自分の信仰の自己批判と総括に過ぎません。
そして私が気をつけているのは、史料をきちんと読んで歴史的な事実を淡々と明るみに出したいと思っているだけなのです。
史料に則らない宗教的議論は単なる「神話」に過ぎないでしょう。もはや日蓮信仰を持たない私にそんな神話は必要ないのです。
問題は、日蓮信仰を根本に他宗派を否定してきた大石寺系教団が、そのような史実の重みに耐えられないようなら、その教学的基礎の浅はかさを自ら露呈しているに等しいのだと言うことなのです。



私のブログは個人的なものですし、小さなものです。
けれど、小さな個の声がたくさん湧き上がった時、教団はそれらの声を無視できなくなるでしょう。
私が言いたいのは、もはや私たちが宗教や教団を必要としておらず、個人で信仰を深める時代に入っているということなのです。
教団に信仰の正統性を担保してもらうような信仰のあり方はもはや時代錯誤に等しく、私たちは教団に頼らずとも自分たちで信仰の本質を求めることができるのです。
だいたい創価学会の本部職員の誰が教学を深く知っていると言うのでしょう。そんな人たちに教わるのは時間の無駄というもので、そんな暇があるならネットで検索するか、文献を繙いた方がマシです。最近の信濃町本部職員は、開目抄も観心本尊抄守護国家論もな〜んにも知らない、読んだことがない人がゴロゴロいます。知らないのに、知ろうとさえしない、知らないことを恥ずかしいとさえ思わないのですから厚顔無恥な教団職員としか言いようがないです。



大石寺の末寺の御住職たちは、個々の差があるとは言え、総本山の噴飯ものの偽作教義に追随するだけの人が少なからず存在しまして、話を聞いても教学的に何の得にもならない。そんな人たちに教えを請いたいとは私は正直思えません。それなら自分たちで勉強します。最近はネットで専門書籍や仏典も容易に購入できますし、情報などいくらでも入ってきます。なぜわざわざ私たちが何も知らない末寺住職や教団幹部たちに「教わる」必要があるのでしょう。少なくとも私にはその必要性が全く感じられません。



更には、このブログで書いているようなことを、教団幹部やら法華講の活動家さんに言うと、彼らはだいたい耳を塞ぐか、頭ごなしに否定するか、やんわりと話を逸らすことしかしないのです。
誰も話をまともに聞かないなら、ブログで書いて自己満足する方を私は選びます。不特定多数の人たちに読んでもらって、多くのアクセスがあるなら一定の評価があるということを推測できるでしょうし、少ないなら私のブログ記事に客観的な例証が不足しているだろうと考えることができます。



私は教団批判のグループや別組織を立ち上げることは考えていません。私が願うのは、個々の信仰者が自分たちで声をあげ、教団に依存することなく、自分たちの思いを素直に発信することなのです。
そのような声なき声が、インターネットによって一定程度の大きな力を持つようになってきた時代なのだと私は個人的に考えています。




多くの魅力的なブログが今はたくさんあります。それらの声の一つ一つがネット上に大きな流れを生み出し、多くの人が教団から一刻も早く離れて個人の信仰に入っていくべきだと私は思います。私たちはもはや教団を必要としていないのです。