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創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

日法彫刻の最初仏について。





いつもみなさん、ありがとうございます。



さて、このブログでは、大石寺奉安堂蔵の弘安2年戒壇本尊が後世の偽造に過ぎないことを繰り返し述べています。





ところで、今回検証したいのは以前に書いた和泉公日法による「最初仏」という、日蓮御影についてです。


大石寺48世日量による『富士大石寺明細誌』には次のように書かれています。



日蓮聖人御影居長三寸 一体
作初の御影と号す又最初仏と称す、弘安二年日法戒壇本尊彫刻の時、右板の切端を以て末代の未聞不見の者の為に此像を造り蓮祖の尊覧に備ふ、聖人掌上に居え笑を含み能く我貌に似たりと印可し給ふ所の像なり(中略)、日法右板本尊並に此像を造り奉り称美の為に有職を彫尅阿闍梨と賜ふ、又此御影像日法作る所に相違無きの条自筆の手形一通之有り」
(日量『富士大石寺明細誌』富士宗学要集5-334〜335ページ)



これによれば、日法が戒壇本尊を彫刻・造立する際に本尊右板の切れ端をもって日蓮の御影を作ったとされます。そしてこの像を日蓮本人に見せたところ、日蓮は手の上にこの像を乗せて「私の顔によく似ている」と微笑んで述べたことが書かれています。



ところが、奇妙なことですが、日興の『富士一跡門徒存知事』には次のように書かれています。



「一、聖人御影像の事。
或は五人と云い或は在家と云い絵像・木像に図し奉る事・在在所所に其の数を知らず而るに面面不同なり。
爰に日興が云く、御影を図する所詮は後代に知らしめん為なり是に付け非に付け・有りの儘に図し奉る可きなり、之に依つて日興門徒の在家出家の輩・聖人を見奉る仁等・一同に評議して其の年月図し奉る所なり、全体異らずと雖も大概麁相に之を図す仍つて裏に書き付けを成すなり、但し彼の面面の図像一も相似ざる中に去る正和二年日順図絵の本有り、相似の分なけれども自余の像よりも少し面影有り、而る間・後輩に彼此是非を弁ぜしめんが為裏書に不似と之を付け置く。」
(日興『富士一跡門徒存知事』創価学会版御書全集1603〜1604ページ)




これを読むと、当時から聖人御影像は複数作られていたことが推察できるのですが、日興はここで「但し彼の面面の図像一も相似ざる中に去る正和二年日順図絵の本有り、相似の分なけれども自余の像よりも少し面影有り」と述べ、「一つも日蓮の面影に似るものがない中で、正和二年の日順の像だけは少し日蓮の面影がある」と述べているのです。

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もしも仮に日蓮存命の時、和泉公日法が戒壇本尊を彫刻し、同時に日蓮本人から「よく似ている」と評価されるほどの御影像を作っていたとするなら、その日法彫刻の御影に日興がここで触れていないのは非常に不自然なことです。普通に読めば、日興はこの時、日法の作ったとされる「最初仏」を見ていなかったことになります。



つまり「最初仏」と呼ばれる御影像は、日興在世中にも存在していなかったということであり、この一事をもってしても日法彫刻・最初仏という事跡は、単なる後世の創作・偽造であるということがよくわかるかと思います。




「和泉公日法のこと」