気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の非活メンバーによる語り

御座替本尊は戒壇本尊の書写ではない。





いつもありがとうございます。
弘安2年戒壇本尊は後世の偽物なんですけど、それに対してなんかSNS上で以下のような反論にもならない反論がありました。


「1番分かりやすい証拠が石山に現存するのだ。客殿安置の二祖日興上人ご書写の譲り座御本尊だ。もし戒壇の大御本尊を日興上人が書写されたんでは無いのならいったい何を書写されたのだ? 答えてみろ」


ずいぶんと口調が乱暴です(笑)。日蓮正宗の方ってみんなこんな感じなんです。もう慣れましたけど。
この前後の言葉はあまりに口汚くてここには載せられません(笑)。どうもこの方は正応3年10月13日の日興による客殿本尊(通称:御座替本尊)が弘安2年戒壇本尊を書写したものだと勝手に信じ込んでいるようです。
そんなわけないじゃないですか(笑)。


まあ簡単に"破折"しておきましょう。
別に信じる信じないはご自由なので、あとはご自身で判断してくださいね。私を批判しても別に何も気にしませんが、口汚い言葉を使うのだけはご自身のためにもやめた方がいいと思いますよ。



弘安2年戒壇本尊と御座替本尊とでは相貌が全然違います。とても弘安2年戒壇本尊を書写したとは思えませんって。
相貌の違いを具体的に挙げてみましょうね。これじゃ「書き写した」なんて言えませんよ(笑)。


戒壇本尊には「有供養者福過十号」と「若悩乱者頭破七分」の文が存在しません。御座替本尊には同文は存在します。

戒壇本尊は「仏滅後二千二百二十余年」ですが、御座替本尊は「仏滅度後二千二百三十余年」です。

戒壇本尊には「提婆達多」が書かれています(中央やや右。転輪聖王と鬼子母神の間です)が、御座替本尊に「提婆達多」は書かれていません。

④「南無天台大師」が戒壇本尊では主題の向かって右側下に書かれています(主題「華」の右)が、御座替本尊では「南無天台智者大師」となっていて、主題の左側に配されて位置が反対になっています(「十羅刹女」のすぐ左側です)。

戒壇本尊に書かれていない「南無章安大師」が御座替本尊には書かれています(妙楽大師のすぐ右側で天台と妙楽に挟まれる形になっています)。

戒壇本尊に書かれていない「南無天親菩薩」が御座替本尊には書かれています。

戒壇本尊では「南無迦葉尊者」となっていますが、御座替本尊では「南無迦葉尊者等」となっています。

戒壇本尊右下の「大広目天王」が御座替本尊では「大毘楼勒叉天王」(増長天の梵名)になっています。

戒壇本尊左下の「大増長天王」が御座替本尊では「大毘楼博叉天王」(広目天の梵名)になっています。


…………こんなに違うのに、本当に書写ですか? そんなわけないじゃないですか(笑)。


嘘だと思ったら客殿と奉安堂に行ってちゃんと見比べてみてください。百聞は一見にしかずと言いますし。
正応3年の御座替本尊は、弘安2年戒壇本尊を書写したものでもなんでもありませんよ。




追記:1
客殿に別体三宝形式で安置されている、通称「御座替本尊」とは正応3年10月13日に日興から日目に授与されたとされる本尊です。
もともとは紙幅の本尊ですが、現在客殿に安置されているものは宝永3年6月15日に大石寺24世日永によって板に模刻されたものです。
まあ、毎日「丑寅勤行」で拝んでいる御本尊ですが、戒壇本尊とは相貌が全く違いますので、書写とは言えません。当然のことながら戒壇本尊を証明する史料にもなり得ません。


追記:2
ここでの日興による御本尊書写に関して「増長天王」と「広目天王」を、それぞれ梵名の「毘楼勒叉天王」と「毘楼博叉天王」とする書き方は日蓮真筆本尊の例に倣ったものです。
例えば嘉元3年5月4日の日興書写本尊(東京・個人蔵)では「大広目天王」が右下に「大増長天王」が左下に書かれていますが、乾元4年8月13日の日興書写本尊(千葉真光寺蔵)では「毘楼勒叉天王」が右下に「毘楼博叉天王」は左下に書かれています。
つまり日興は御座替本尊を書いた際、日蓮真筆本尊の筆法を参考に「毘楼勒叉天王」「毘楼博叉天王」としたのでしょう。戒壇本尊などというものが当時存在していなかったことがここからもよくわかると思います。
なお「毘楼勒叉天王」(増長天)と「毘楼博叉天王」(広目天)を梵名で書く場合に左右が入れ替わるのは日蓮自身の筆法です。